映画「メメント」から考える「幻想」
お疲れ様です。
今日も今日とて映画を観たので、その話を。
※注意!!!
以下、映画「メメント」の壮大なネタバレを含みます。
この映画は歴史に残る超名作なので、観ていない方は絶対に観てください!
深淵なる物語を味わえることでしょう…
さて、今日観たのは「メメント」。
あのクリストファー・ノーランの往年の作品ということで、ちょっと期待して観てみたら、想像を遥かに超えた物語で、観終わった後は少し唖然としてしまった。
短期間で新たな記憶を失ってしまう主人公レナードが、妻を殺した犯人を探し出すため、過去の自分が残したメモを頼りに行動していく。
犯人を探し出す中で、レナードの友人を名乗るテディという刑事や、レナードを家に泊めてくれたナタリーと交流し、物語は真実と嘘が混じり合い、混迷を極めていく。
最後に、テディからレナードへ真実が告げられ、妻が亡くなった原因はレナード自身であること、テディはレナードの短期記憶喪失を利用して麻薬捜査をしていること、そして、妻を襲った犯人はすでにレナードに殺害されていることをレナードは知る。
だが、レナードはその真実を受け止めず、テディの写真に「彼の嘘を信じるな」とだけ書き、「自分の記憶は自分であることを確かめるためにある」ことを考え、もう一度記憶を失うのだった。
このストーリーは非常に複雑な時系列で描かれており、白黒映像は本編以前の時系列、そしてカラー映像は時系列を逆転した形で進行していく。
(つまり、カラー映像部分は物語の序盤が最も新しく、最後が最も古い時系列となる。)
こうした難解かつ巧妙な映像を作れるのがクリストファー・ノーランの醍醐味のひとつだ。
僕がこの物語で着目したいのは「幻想」について。
詳細な説明は省くが(説明しだすと終わらないので)、主人公レナードの短期記憶喪失は心因性のものとして描かれているように思われる。
つまり、彼は脳の損傷によって忘れてしまうのではなく、忘れようとして忘れている可能性があるのだ。
その理由については最終盤で明かされるのだが、彼は「妻を殺した犯人を探し出して殺害する」という自分を作り出すために、記憶をなくし続けている。
妻を殺した犯人の名前をレナードは「ジョン・G」とメモしており、それはありふれた名前で、その名前に該当する人物はいくらでもいる。
だから、常に記憶をなくし続けることで、妻を殺した「ジョン・G」を始末した後も新たな「ジョン・G」を探し続けることができる。
こうしたことから、彼は自己と妻に関する事件に対して強い幻想を抱きつづけている。
すなわち、自分に突きつけられた現実を受け入れることができず、それでも生きていくために自分は短期記憶喪失を患っていて、妻は誰かに殺されたと、幻想というフィルターを自分の眼前に用意することで現実を生きていくのである。
ちなみに、映画の冒頭ではその真実を伝えてくれたテディを、自分に親身になってくれたナタリーに唆されて射殺している。
つまり、彼が短期記憶喪失を繰り返している幻想について唯一知る人物を殺してしまったことで、彼はその幻想の中での永劫を手にしたのである。
これは映画鑑賞者視点では地獄の始まりのように見えるが、幻想を生きる彼にとっては幸福なのかもしれない。
こうして幻想について描いた映画はいくつかある。
例えば「ジェイコブズラダー」や「シャッターアイランド」など(これらも超名作なのでいつかとりあげて書きたい。)
ただ、これらの作品と「メメント」が大きく違うのは、例に挙げた2作品は主人公が幻想を受け入れ、真実へと対面していくラストだが、「メメント」は真実と対面する可能性を自ら閉ざし、永遠に幻想の中で生きていこうとする点だ。
この両者の違い、すなわち、真実を受け入れる者と受け入れない者との違いとは何なのだろうと思う。
僕が思う決定的な違いは、諦めと納得という2点だと思う。
諦めとは、自分に突きつけられた現実や真実に対して、どう足掻こうとも決して逃れることはできないのだという諦念のようなもの。
そして、納得とは、幻想に生きるのではなく、真実の世界で生きていく、またはそれを受け入れることを理解し、そうすべきと志向することだ。
諦めと納得、これらによって人は幻想から脱して真実と向き合うことができる。
この文章だけ見ると非常に浮世離れしているのだが、僕は人間にとって普遍的な事実として捉えている。
全ての人は何らかの幻想の中に生きている。
幻想の過剰さに大小はあれど、ありのままの世界を捉えて生きている人間はいない。
例えば、一杯500円のコーヒーに対して、「高いから缶コーヒーでいい」と思う人もいれば、「それに見合うおいしさがあるから飲みたい」と思う人もいる。
つまり、ある事実に対して認識や判断を人間は常に下し続ける、この時点ですでに幻想が生まれる土壌が整地されてしまっている。
先ほどの例はかなり卑近なものだが、これがもっと自分にとって過酷な現実になるほど、幻想は過剰に育っていく。
僕はうつ病なのだが、不眠症で眠れず、そのせいで仕事ができないという現実に直面した当初、もう自分は存在している価値がない、早く死ななければならないと思っていた。
この考えを紐解けば、「働いて生計も立てられない自分は死ぬべきで、そのための努力をしなければならない」という、退廃的な幻想の中にいたことになる。
今はその気持ちは薄れつつある、でも、以前のように働けなくなった自分を許せない気持ちがある。
しかし、「メメント」を観たことで、幻想から脱していくために諦めと納得が必要だと、そのことについて納得した。
だが、そう納得したからと言ってすぐにできることではない、もっと時間が必要だと実感している。
「考え方が変われば世界が変わる」と、よくメンタルハック系の情報商材屋が言っていたりするものだが(偏見です)、「考え方」とはすなわち幻想の土壌のことであって、その「考え方」を別の「考え方」に変えたところで根本解決には至らないのではないかと思う。
いずれまた、別の「考え方」へとシフトしていく必要があるからだ。
重要なのは、ある事実をどう考えるかではなく、もっとその手前の段階としてある、諦めと納得により、その事実を受け入れるかどうかだ。