吾唯足知
世界中で皆が行動を制限されはじめた去年、「ブックチャレンジ」というのがSNS上でまわっていた。
好きな本とその理由が語られる。
それは、友人知人たちの本棚をこっそりのぞき見する感じ。
当たりが柔らかく謙虚に思っていた知人の意外に大きな自意識(本の中身より、オレこの有名なアメリカ人投資家と会ってんだぜという自慢話)や、カタブツと思っていた人の意外なチャラ部分(ホイチョイ本が好きだった学生時代の過去とか)がみえて、実に楽しかった。
♢
中学一年の現代国語の授業で「好きな本を一冊選び、あらすじと理由を発表する」時間があった。
まさに「ブックチャレンジ」。
自分が何を選んだかは覚えていない。
けれど、本当は大好きな本(マンガ)は「パタリロ」と「ガラスの仮面」なのに、ちょっとかっこつけた本を選んで発表したことだけは確実だ。
今でいえはまさに厨二病。
あ、中学生だったんだからいいのか。
♢
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言いあててみせよう」
ブリア・サヴァランの有名な言葉は、もちろん本にも当てはまる。
SNS上の投稿を見ながら、「もしも私にお鉢がきたら、いったいどの本を選ぼうかな」と妄想に浸っていたら、友達からバトンが回ってきた。
うわーい!なんだかうれしいぞ。
一番最初にくる私の「絶対的に好きな本」。
それはシェル・シルバスタインの「ぼくを探しに」(The Missing Piece)だ。
この本との出会いは、その中学校での国語の授業にさかのぼる。
この本をクラスメイトのE子ちゃんが取り上げて発表したからだ。
「ぼくを探しに」は、ミステリアスで普段は寡黙な彼女が、思い入れ強く称賛した「絵本」だったことで、私の記憶に印象強く刻まれた。
まだAmazonなんてなかったから、青山のクレヨンハウスで日本語版を買った。
のちに、マンハッタンのBarnes & Nobleで原本である英語版も買った。
その英語版は、ニューヨーク→東京→ウィスコンシン→ミネソタ→東京→ロンドンと旅して、今も私の本棚にいる。
もう35年くらい経つのに、いや、年を重ねれば重ねるほど、深く考えさせられる不思議な本なのだ。
自分には何かが足りないと気づく。
それを探しに行く。
そして。
仏教の十牛図にも通じるメッセージ。
♢
中学生の時も、高校生の時も、大学生になってからも、
そして、たぶん、社会人になって数十年経った今でも。
周囲の目には、私は「行動して、掴む人」にみえるだろう。
目標を定め、それを叶えてきた「恵またひと」だと。
でも。
私はいつでも、「何かが足りない」焦燥感に駆られていた。
それがまさにこのパックマンのような絵本の主人公なのだ。
私も同じようにゴロゴロと悩みながら迷いながら地表を転がってきた。
私の中の大きな自意識が、「自分はスゴイ何者かになるはず」だというのに、そのくせ現実の自分はたいしたことを成していないというギャップ、そして焦りでもあった。
自分が達成したいと思うものが、走れば走るほど、さらに逃げていくような焦燥感もあった。
♢
その「不足感」「焦燥感kから、20代の私はアメリカに飛び出した。
高校からの夢だった日本語教師という目標をかなえるために。
ところが。
実際になってみたら、「あれ、これじゃないかも?」というのが感想だった。
愕然とした。
おかしいな、じゃあ何をしたいのかな。
何が足りないのかな。
そして、このままじゃ日本に帰れない、と、焦ってMBAを取った。
いい仕事が、肩書きが、その不足を埋めるかも、とキャリア形成に汗だくになった。
そうやって「足りないなにか」を埋めようと走るうちに、気づいたらイギリスまで来ていた。
そして、多国籍企業の本社で、巨大でチャレンジ続きだったけれども、同時に大きな達成感のあるプロジェクトにたずさわった。
♢
水が流れるように行き当たりばったりでたどり着いたイギリスでの生活は、ヨーロッパの仕事観、生活観に触れ、ライフ-ワークバランスを新しい視点で見直す機会になった。
そして、そこで、ようやく。
「足らないと思って、探しもがく道程こそが人生」
なのだと気づいた。
あれ?
これって、「ぼくを探しに」の最後で、敢えてまたゴロゴロと転がる、あの主人公のことじゃない?
♢
「自分はまだ足らぬ」と認識し、足りないものを見つけにいく旅。
その旅の先にあったのは
「足りないと思い、探しもがく自分は、しかし視点を変えれば充足しているのだ」
という境地だった。
足りている、と認知することで、自分がこれまでに達成したことを感謝とともにポジティブに評価し、受け入れる。
まず自己肯定し、その上で、健全な向上心を持ち、さらに歩み続ける。
肯定できるからこそ、かっこつけはしない。
誰かとの競争心のために、本当は要らないものまで欲しがったり追いかけたりしない。
そんな気持ちが生まれた。
♢
この心境を表しているものが京都にある。
龍安寺のつくばいだ。
五・隹・疋・矢の文字が中央の口と合わさることで「吾唯足知」となるそのシンプルかつ考え抜かれた意匠もさることながら、「ただおのれは足ると知る」と庭先の苔むした石が諭すことの深さ。
初めてこのつくばいを目にしたのは高校の修学旅行の時だった。
その後何度も。
自分のおかれた状況ごとに、私はこの言葉をいろんな味にかみしめてきた。
足らない足らないと歩き続けたその先の今。
貪欲にあれもこれもと欲しがり汗をかいたその時間を経て、ようやく至った、自分のこれまでを認め、必要なことに焦点を絞って研鑽していく気持ち。
それは自然と自分を紡いでくれた環境と歴史への感謝にも繋がる。
「すごい誰か」にはなれなかったけど。
「誰かじゃない自分だけの私」、結構悪くない。
大丈夫、だいじょうぶ。
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