無用の用
高校時代の漢文の授業で覚えている数少ないこと。
それがこの「無用の用」だ。
テストでは、漢文(30点)+古文(70点)で合計100点という仕組みだったので、高校三年生の最後の期末はまあ古文ができていれば卒業できるしと、漢文のテスト用紙に「採点の手を煩わせるのも申し訳ないので、白紙にしておきます」と書いて出した。
T先生は、流麗な赤文字で「お気遣いありがとう。卒業おめでとう。0点」と返してくださった。
もちろん附属校ということもあるだろうけれど、そういうことが許されるおおらかな校風だったし、そんな環境で育つことができて幸せだと思う。
さて、この「無用の用」。意味はというと、
といった感じだろうか。
授業中、T先生は、チョークで美しく白文を書き、
「一見、役に立たなさそうに見えるものにこそ、実は本当の役割がかくされているのだ」
と、さらに今度は荘子の引用を書いた。
人間が歩いていくのには、足を置くだけの土地があればいい。
ではもし足を置く以外の「無用な」土地を奈落の底まで掘り下げていったらどうなるか。
歩くことは出来ても、何のために歩くか意味がなくなってしまう、と。
この時目に浮かんだ「足元以外は深い穴になった地面のイメージ」が、30年以上経った今も、鮮明に焼きついている。
♢
昨日、久しぶりにピカデリーサーカスのフィートナム&メイソンへ行った。
帰国前にお土産を買うYちゃんと待ち合わせなのだ。
「ごめん、やっぱり5時にして」
2時だった約束が4時になり、そしてバスに乗ってる間に5時になった。
はっはっは。予想通り。
だからこそ時間がかかるけれど携帯が繋がるバスで向かうことにしたのだ。
「せっかくだもの、ごゆっくり。私は時間調整してるから」
とはいったものの、地上階は、観光客らしいバスケットをいっぱいにした人たちで大混雑。じゃあ、時間調整にと、上の階へあがっていった。
食器、キッチン用品に、香水、バス用品。
もしあなたがピカデリーサーカスに行くことがあったら、ぜひフォートナム&メイソンへ行き、表通りのウインドウディスプレイ、そして上の階をこそ見てほしい。
まるで閉園直前のディズニーランドのお土産コーナーのような殺気立った空気の地上階とは違い、フォートナム&メイソンの上の階は見逃すのがもったいない素敵な空間なのだ。
そこには(コロナの前から)贅沢に空間を開けて、おしゃれに、あるいは可愛らしくディスプレイされた「生活に必須じゃないもの」がいっぱい売られている。
いい匂いの香水も、
果物を美しく飾るためだけの脚付きの台も、
別になくたって、生活には一切困らない。
でも、フロアを歩きながらキラキラ飾られた石鹸置きや髭剃りキットを通り抜けながら、そういう余白部分が人間を癒すんだなあと実感する。
しわいやの私は、だからってそういうものを買うわけでもないのだけれど、キラキラした「無用」のものたちを眺めているのは、とても楽しい。
♢
フロアを歩いて思い出すのが、ニューヨークの五番街にあったヘンリベンデルだ。
こちらは洋服とコスメに強いデパートというイメージで、一階のむせかえる化粧品売り場の匂いをかいくぐっていくと、上の階にはワクワクするようなディスプレイで「どこに着ていくの?」という帽子や洋服が飾られていた。
そんなヘンリベンデルも、2019年に123年の歴史に幕を閉じてしまった。
アメリカに目が向いていた20代のころ。時はミレニアム。
日本のバブルは遠く昔のことで、アメリカが活気を取り戻していた。
だんだんと力を失うYenに、私にとって五番街のきらびやかな店たちは「感性を磨くもの」であって、「買い物をするところ」ではなかった。
でも、その時に、負けず嫌いもありつつも、なんとなく学んだような気がする。
「買えないし!」
と早足に見ないことにして通り過ぎるのではなく、
「買える買えないは関係なく、素敵」
と、ゆっくり右左を眺めながらあるく時間というものを。
それは、道端でストリートミュージシャンが演奏する音楽に耳を傾ける時間のような。
今日は、急いで目的だけにとらわれて通り過ぎなくていい。
ゆとりがあるからこそできること。
効率やカイゼンや省力化も大事だけれど、それとは少し別の物差しで、ときには緩めることも大切だ。
もうひとつ。それができるようになったのは、年を取ったからかもしれない。
昔は、店員さんが、しかも英語で近寄ってくると、
「じゃ、じゃ、じゃ、ジャストルッキング」
と、大慌てで手を振って売り場から移動していた。
でも、今は
「すごいですねえ。素敵なディスプレイ過ぎて思わず見入っちゃいます。もしも質問があったら声をかけますから」
と、にっこり返せる余裕ができた。
♢
その、フォートナム&メイソンのフロアの奥に、造花やてんとう虫、水玉ポンポンやハートが飛び散った、とてもクレージーにかわいらしいシャワーキャップが飾られていた。
ああ、なんて愛らしい。
でも、私はシャワーキャップなど使ったら、翌朝には武田鉄矢のようにぺっとりしてしまうねこっ毛の持ち主だ。
そうだ。
シャワーキャップの愛用者である、うちの母親と、仲良しのY子のお母さまに奮発しちゃおうかな。
あの時代のおかあさんたちは、ぜったいに「なんで、シャワーキャップにこんなお金払ったの!」というだろうから、こっそりと。
ニヤニヤしながら、「これ、めっちゃ可愛くない?」と日本にいるY子に写真付きメッセージを送っていたら、同じようにフロアを回遊していたふんわりワンピースを着こんだイギリス人のご婦人が近寄って来た。
「あら、あなた。なにを迷っているのよ。
オンナにはいつだって、気分を高揚させてくれる、こういうチャーミングな小物が必要なのよ。お買いなさいな」
まさに、「無用の用」。
こんな風に、通りかかったご婦人とのやり取りをする「一見、無駄に思える時間」こそ、私にはとても大切に思える時間なのだ。