パリは燃えているか
燃えてなんかなかった。
デモの人影もなかった。
オルリー空港も厳戒態勢という感じではなかったし、バスで到着した14区は金曜の夜にしては少し人が少ないなというくらいで、通りにいっぱいにならんだテーブルで、ひとびとが思い思いにタバコをくゆらし、アペロールや白ワインを楽しんでいた。
前にも書いたけれど、やっぱりニュースというのはヒトの眼鏡だ。
いちばん激しいなにかが起こっているところを切り取って報道されれば、それがすべてなのかと誤解しがちだ。
とはいっても、リュクサンブール公園を通り抜けた時、そこにはバリケードのような鉄柵が臨時で置かれ、銃を手にした男女の警備スタッフが詰めていたから、まったく通常運転というわけではないのだろう。
♢
今回のパリは「おいしいものを食べて、のんべんだらりして帰ってくる」がテーマ。
オルリー空港のシャトルバスから徒歩の距離でホテルを取っていたので、まずは部屋に荷物を置いて、急ぎ足で閉店間近のバーへ駆け込む。
キンキンに冷えた白ワインのボトルをあけて、週末のスタート。
と、「なんか小腹すいちゃったな」ヴィンセントが言う。
ええっ。ロンドンを出発する前に空港で夕飯食べたのに?
グーグルには11時にキッチンが閉まるとあったけれど、ダメモトで尋ねてみると、店のご主人は、いいよいいよ、つくってやるよとにこやかにメニューを手渡してくれた。
なんとそこは「シリア料理」のレストランだった。
茄子の肉ハサミ焼き、肉まんを焼いたような料理が典型的なシリア料理だとこのまえトルコで学んだばかりじゃないか!
「おお!なんてことだい。日本人だっていったろ?なのに、ちゃんとシリア料理の事を知ってるんだな」
ご主人はさらにニコニコして、横に座っていたマダムにそれを伝えたようだった。マダムもニッコリ笑って、手元のビールグラスを掲げてくれた。
「今日はチキンだったけど、明日にでも肉詰めを食べにおいで」
結局、閉店時間を30-40分は過ぎていたろうか。
頼んだチキンケバブには、たっぷりムタッバル(茄子のペースト)とフムス(ひよこ豆のペースト)が添えられていて、コンヤで食べたシリア料理のことを思い出させた。
私たちはにこやかに見送られて、お酒とひとの暖かさの両方でいい気分になって、ホテルへと帰った。
♢
だらだらパリの朝は、自分でやるネイルから始まった。
お正月に帰省したときに友達が教えてくれた韓国製のジェルシール。ロンドンに戻る時買い込んできたのに、プロジェクトの嵐ですっかりそのまま放置していた。
せっかくのパリ。ここでやらずばとかばんに詰め込んできたのだ。
で、ホテルの中庭で、朝からひとりネイルタイム。
「ヘアスタイルは他人のため。ネイルは自分のため」
昔、そういっていた友達がいたけれど、本当にそうだなあと思う。
髪の毛は自分では見えないけれど、ネイルは何をしていても目にとまる。手入れをしていると思うだけで、なんだか気分が上をむいた。
そういえば、介護施設でケアマネージャをしている友達は、自分を奮い立たせるために、カラフルにジェルネイルをしているといっていた。
ときどき、施設のおばあちゃんたちにもマニキュアをしてあげるのよ、ともいっていた。
爪がしあがったら、なんだか出かけたくなったので、そのまま一人でバスに乗って、蚤の市へ。
去年の11月にいったときには屋台の数も少なく、なんだか寂しい印象だったけれど、暴動なんてなんのその。この日はこれまでの10年でいちばん屋台の数も多く、人出もたっぷり大賑わいだった。
ネイルで気分のあがった私は、つい、キラキラの指輪を買ってしまった。
ひと通りめぐって、あまりの暑さに、歩いて帰るのをあきらめバスに飛び乗ったところで、メッセージがはいった。
「いま、起きた。お昼ごはんの前に散歩にいこう」
いやいや、私はもう結構歩いてるんだけど。
ホテルに戻って、隣のパン屋でクロワッサンをひとつとコーヒーをふたつ買い朝食代わり。
ランチへ向かうバスを、凱旋門の手前でわざと降りて、腹ごなしに散歩することにした。
ここにも暴動の影響はまったく見られなかった。
あえて言うなら、夏のパリの割には、観光客が少ないかなというくらい。
でもコロナ後はなんだかそんな景色にも慣れてしまったので、そういう意味でも、まったく普通。
それよりなにより、とにかく暑い。
気温は28度くらいしかないようなのだが、湿度が高い。
ロンドンの気候に慣れたカラダにはつらい暑さだ。
ランチを終えて、ホテルに戻り、とにかく昼寝。
窓を全開にして、中庭に通じるドアも少し開けると、気持ちよいくらいに風が通り抜ける。
気がついたら、夜だった。
♢
この暴動で、もしかしたらポジティブなことがあるとしたら。
それは、いつも行列がすごくて入れたことのないタパスバーに行けるチャンスかも、ということ。
事前に読んだニュースでは、夜9時以降は電車が止まるかもと書いてあった。
だとしたら、土曜とはいえ、もしかしたらあの人気店もいつもよりゆとりがあるかもしれない。
少し涼しくなった中、そんな期待でサンジェルマンまであるいていく。
墓地の間をぬけ、リュクサンブール公園をぬけ、サンジェルマンへ。
やってきたラヴァン・コントワール(L'Avant Comptoire)。
二軒並んだ海と山のタパスバー。
そしてどちらも入れそう!
うわうわ、どうしよう。
一瞬悩んで、やはり暑い日は牡蠣だろうと「海の幸」のほうへ。
お客さんたちの間に、一個だけ空いている丸椅子が目に入ったので、カウンターの中のおじさんに、椅子を動かしてもいいかと尋ねる。
「動かしてもいいけど、どうして?」
え、やっぱりそれって好まれないのかしら。
心配になったところで、ニヤリと笑いながら、おじさんが続ける。
「だって、ちょうど2人分のテーブルが奥に空いているんだよ。そっちのほうがいいでしょう?」
なんと、ラッキーな!
嬉々として席に着く。
メニューをグーグルで訳すアイルランド人をよそに、食いしん坊の私の目は、カタコトながら、すでに牡蠣、マグロのタルタル、ガスパチョなどこれぞと思うメニューを読み取っている。
まさに、これこれ。
しっかりコースのランチを食べた日の夕飯だったから、こんな感じで軽くつまみながらキンと冷えた白ワインが飲みたかった。
「ええと、あまりドライ過ぎない白を40ユーロ前後で一本お願いします」
カウンターにいって、さっきのおじさんに話しかける。
ふうむ、といいながら選んでくれたワインは、少しバリークが利いてまさにに気分にぴったり。ニッコリ。
「そしてスパークリングウォーターも一本」
食べ物の注文をし、最後にそういうと、おじさんはまた椅子の時と同じ顔で「どうして?」といった。
え、水って問題なんだっけ?
「あの、えっと、だって、暑いから、そうしないと脱水症状がすすんで…」
と、しどろもどろになる私をみて、ふたたびイタズラッ子の目を光らせたおじさんはウインクした。
「だって、ここはワインバーだよ。酔っぱらわなくっちゃだめでしょう?」
♢
しかし、私たちはあっというまに最初のボトルを開けて、二本目の白ワインを頼んだので、そんなおじさんの試験にちゃんと合格したようだった。
最後まで、とてもにこやかに目を配ってくれていたので、会計のあとお名前をうかがった。
「エリックだよ。またきてね」
エリックさん、ありがとう。
ワインの給油が済んだので、私たちは、帰りも歩いていくことにした。
少しずつ夕闇がひろがり、街角のブラッサリーやカフェのネオンがきらめき始める。
ああ、パリに、パリのひとたちに、癒されてるなあ。
パリは燃えてなんかいなかった。
それに、すこし人の少ないパリで、なんだかいつもよりもゆとりがある週末を過ごすことすらできた。
うん。充電、完了。