Endurance Raceを続けたその結果 富士登山競争は別格だった。
Endurance Race (超・長距離レース)
私は、当時としては珍しいEndurance Race (超・長距離レース)、トライアスロンをメインとしてレース活動をしていた。当時それが私のライフワークだった。つまり人生の全てであった。
モトクロスレース引退後、自転車(ロード)にハマり、偶然か必然かトライアスロンを始めた。この時30才だった。
1985年、ここからEndurance Raceを63才まで切れ目無く続けていた。
トライアスロン以外では、自転車(ロード、マウンテンバイク、シクロクロス)スイム(競泳、遠泳)ランニング(マラソン)とあり、1年中練習とレースの連続だった。
ついに倒れる
これをやり切る為、常に練習時間を捻出するサラリーマン生活をしていた。通勤ラン、通勤自転車、夜スイム(夕飯前なので、腹が減ってしかたない)
ジジイになって、少しはその時間も減ったが30年以上こんな生活していた。そして子供3人大学を卒業させて、家のローンも終わり、20年続けたベンチャーといえる会社をたたんだ2021の夏、倒れた。
出血多量で行き倒れた戦士みたいだった。
家族は単なる不摂生だ、飲み過ぎだと言うが、この際格好をつけたい。
ステント兄弟
私は64才で急性心筋梗塞を起こした。家族性高コレステロール血症(FH)ではないが、遺伝的に親父も弟も、狭心症、心筋梗塞を煩っている。弟は50代で心筋梗塞を起こし、ステントを入れている。私はカテーテル3回、左右の冠動脈とそれ以外に3箇所、計5箇所にステントを入れた。
まさにステント兄弟だ。
寿命が延びる
倒れた時はICUで、死にそうなったが、一応練習が出来るまで復帰はしている。理学療法士に言うには、たまにそんな人もいるそうだ。ただ私の場合、一時的に心臓が止まるほどの重症だったので相当珍しいようだ。
医師にも「理由は特定出来ないけど、寿命が延びましたよ」と言われた。
これも30才から60過ぎまで持久力(Endurance)スポーツを途切れなく続けた事。それが寿命を延ばしてくれたと思っている。
LSD(Long slow distance)
ここでいう運動とは、チョコザップ系の短時間の運動ではない、LSD(Long slow distance)を主体とした運動だ。
有酸素運動というものだ。これは持久力をつける運動。ちなみに持久力とは疲労の発生を遅らせて運動を継続する能力だ。
有酸素能力を高めるためには、相当の忍耐力が必要だ。特にアイアンマンという超距離のトライアスロンは、10時間程度、ある程度の負荷で運動を続ける持久力がいる。
持久力
持久力トレーニングに関する科学的研究は色々ある。
一般に持久力トレーニングがもたらすものには、VO 2maxの向上、筋肉に血液を供給する毛細血管の増加、ミトコンドリア密度の増大、血液量の増加、一定強度での運動時の心拍数低下などがある。
この辺りは説明が面倒なので、専門書をお勧めする。
おそらく私は現在でもトライアスロンに参加出来るだろう。でも今更完走だけのレースには感動もない。人生引き際があるので引退した。
その代わり、もう一つの趣味アウトドアスポーツに重点を置いて遊んでいる。
さてこの辺りから本題、トライアスロンを70回以上(細かくは忘れた)、競泳、遠泳、マウンテンバイクレース、ロードレース、マラソン、トレラン色々なレースに参加したが、一番キツいと思ったレースと言えばこれだ。
このレースに1987年に参加した。会社のスキー部(ノルディック)と昼休みの練習で、当時勤めていた府中にある大工場の周りを走っていた。1週5キロだ。顔見知りになった部員達に富士登山競争に誘われた。
それが、どんなレースか知らなかったが、参加することにした。
前日受付が基本だが、仕事も忙しく当日移動となり、受付はスキー部に任せた。
試合当日、朝3時半に、愛車のダットサントラックで富士吉田に向かう。
板バネのサスペンション、ベンチーシート、乗り心地は悪い。
7時にスタートする。5合目(15キロ)の足きりが2時間位だと思っていたので、そこまでは結構なペースで走る。登山道に入ってからは、階段は歩き、後は走る。しかし8合目からはほぼ歩きとなる。
朝早くの移動、仕事の疲労もある。足が動かない。息が苦しい。それでも登り続けた。
「甘く見ていた」
日帰りで富士登山、それも走って登る、なめきっていた。
制限時間は4時間半、何とか4時間19分でゴールした。完走者の50%に入った。
「寒い」
ランパンとロングスリーブだけでは夏でも頂上は寒い。気温5度だ。暖かいうどんを食べる。
しかしゆっくりしてられない。時間は12時半、5合目まで降りないと送迎バスがない。そのバスも3時が最終だ。
今度は火山灰のコースを走り下る。しかし膝ががくがくで何度も転び、足は血だらけだった。それでも根性でバスに間に合う。
疲れたが、ここで1泊とはいかない、明日も仕事が8時10分からある。
そのままダットラで高速を走って帰ったが、途中で居眠り運転をしていた。
ここで死んだら身も蓋もない。
危険なのでパーキングで寝る。寝過ぎた。帰宅すると朝だった。
そして、出社し8時10分始業。設計業務なので体力的には楽だが、居眠りを繰り返していた。
「もう、二度と出ない」とその時は思ったのであった。