中坊まさひろpart1 2012年10月19日
~サッカー部での練習と部の先輩達のおかげで、学校内のやばい勢力から虚弱体質ながら1年間、身を守ることが出来た。
そして若さは素晴らしい、1年後、人並み以上に体力も付き、ついでにサッカーも上手くなった。
都立の工業の中高一貫校
1968年、私は地元の公立中学校に入学しなかった。日本で初の都立の中高一貫校へ、一応受験して入学した。
ここまでの話だと、私は相当優秀なお坊ちゃまだと勘違いする人が多い。
しかし都立世田谷工業高校の付属だと言うと、
「何でそんな所に入ったの」
「工業高校の中高一貫校、訳わかんない」
「ヤンキーの中高一貫校?」
ひどいものである。でも半ば当たっている。
教育行政というのは時折訳がわからない事をする。
「ゆとり教育」とか今でもあるでしょう。
話は戻り、当然学校は地元になく世田谷区成城にあった。最寄りの駅は京王線の仙川駅、または小田急線の成城学園駅になる。
住んでいる場所により、仙川組と成城組に分かれていた。私は調布に住んでいたので、仙川組となる。
仙川駅から徒歩30分、2.5キロある。これで最寄りの駅かよ・・と思った。
サッカーとの出会い
私は小学校時代「虚弱体質」だった。卒業間近にやっと体力的には人並みになったが、世の中、体力自慢のガキは沢山いる。
中1では成長差があり、私の体力ランキングはまだまだ低レベルだった。ガラの悪い中学で生き抜くには力不足だ。
私は、サッカー部の部活動と地元のサッカークラブの練習にも参加し、体を鍛えた。便所で足が曲がらない、血尿がでた。取り憑かれたように1年間ボールを追い続けた。
このサッカー部での練習と部の先輩達のおかげで、学校内のやばい勢力から虚弱体質ながら1年間、身を守ることが出来た。
そして若さは素晴らしい、1年後、人並み以上に体力も付き、ついでにサッカーも上手くなった。
体力測定
私は朝ご飯を食べながら、学校の行事に考えを巡らしていた。
今日は勝負の日。今までの努力の成果を見せる日だ。
中2になってクラス分がけされた。そして5月の連休後、学級が少し落ち着いた頃に体力測定がある。そして今日がその日だった。
私は少々心配だった。この体力測定を失敗すると、学校でのパワーランキングが落ちるのだ。昨年、入学時は、私はまだ「もやしっ子」であった。部活を頑張って、なんとかある程度まで評価をあげた。相当に苦労した。だから、この体力測定で、振り出しに戻りたくはない。
友人ワタル
京王線の仙川駅、桜の木の下で同級生のワタルを待ちながら、横目で桐朋女子の女の子を見ていた。いいなぁ、幸せそうで。
「おーい、待った」ワタルが自転車で現れた。
「今来た所、おい、あの子、お前を見ているぞ」
私は桐朋女子の女の子が群れている辺りを指さした。
「何処、何処」
「嘘だよ」
「なんだよ、からかうなよ」
ワタル、人はいいが少々とろいので、仲間内でよくからかわれていた。力持ちだが、勉強も出来る方ではなかった。
それでも、俺が部活でのしごきと練習のし過ぎで、足が曲がらずに歩けない時、駅から自転車に乗っけて学校まで送ってくれた。いい奴だった。
私はワタルの自転車の後ろに乗り、学校へ向かった。今日は出来るだけ体力を温存しおく作戦だ。
勝負の50m走
昼、弁当を食べた後の授業が体育だった。そこで体力測定をする。一番はじめに50m走がある。
中1の頃より身長は5cm以上伸びたが、筋力はまだそれほどない。
よって、握力、背筋力、砲丸投げや、ソフトボール投げなどの記録は望めない。
走る、飛ぶ、敏捷性で稼ぐしかない。しかし、何と言っても、50m走が速ければ他の記録が悪くても全然問題ない。
ここさえ頑張れば、
「後は、たるいから、手を抜いた」などのへたれ発言をしても、皆が信じてくれるのだ。
ともかく私はこの一本に集中することにした。
体育の先公はコバヤシだ。野球部の顧問。やくざの出来損ないの様な態度の悪いおっさんだ。
特に野球が下手くそな私への評価は低い。
私の前に走った奴らで、まだ6秒台はいない。ともかく6秒台はださないと。
私はジャージを脱ぎサッカー部の短パン姿になって、気合いを入れていた。
「集中、集中だ」多少フライングしても素早くスタートを切ろうと、前の組のスタートのタイミングを観察した。
私の番だ。コバヤシが言う
「お前、サッカーだけは上手いんだろう。そこがわかんねぇよなぁ」
相変わらず失礼な奴だが、これで火が付いた。
ベストがでる
よーい、ピー(笛)でスタートする。ピーの音の頭で低くスタートして、足を出来るだけ速く回す。無酸素状態で走り切る。
ストップウオッチがかりのマスヤマが叫ぶ「6秒2!」
今まで一番速い記録だ。
「おーい、間違ってないか!」コバヤシの馬鹿が言う。
「絶対に間違いありません」マスヤマが言う
マスヤマにはアイスおごってやろう。
翌日、体力測定の種目別ランキングが学年ごとに体育教官室の前の廊下に張り出された。
私は、学年3位だった。上位の一人は陸部のスプリンター、もう一人は天才的に運動神経の良いハンドボール部の奴だった。
そして、上位5人は世田谷区の中学校陸上競技大会のリレー選手となった。
「やれば、出来るもんだ」
その後、コバヤシのなめた態度も少々変わり、授業でサッカーをやる場合、私に見本演技をやらせたりするようになった。
続く 旧中学校校舎