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散歩のひと  真夜中の散歩 山手線沿いを1周する

ジョニー・ウインター
 高校2年の時からホンダCB750に乗っていた。
サッカー部は諸事情で夏休み前に辞めた。その後、先輩達に体育館裏へ呼び出された。「ベタだ」
「お前のこと期待している、右のウイングに足の速いお前が必要だ」と小さい部長が言う。
「怪我がまだ治ってないので、無理です」実際、夏休み前の練習試合で骨盤にヒビが入っていた。そのリハビリにウンザリしていた。

 夏休みに入ると部活もなく、そのエネルギーを持てあましていた。
ナナハンの使い道として暴走族に加わった。
「これは面白い、アクセル全開で走れる」
土曜日は暴走日となった。そうなるとバイクのガソリン代を稼ぐ必要がある。平日はバイトライフとなる。

 この頃遊んでいた暴走仲間のバンドマンのSくん。彼の家や音楽喫茶店でロック三昧だった。
この時、ジョニー・ウインターを初めて聴いた。100万ドルのブルースギターリスト。深夜にこのLPをかけるSくん。彼の家は目白通り沿いにあり、深夜、空っぽの道路にジョニー・ウインターのギターが駆け巡った。
そして私の頭はこの夏で空っぽになった。これで十分だった。

ど田舎の大学校舎
 受験勉強は弟の中学校の英語の教科書から勉強をし直した。そこまで落ちこぼれていた。
そして2浪した。入学した大学はN大理工学部だった。H大やD大、他の大学の工学部にもこの時受かっていたが、本命のW大の理工は落ちた。
なら何処でも良かった。立地的に御茶ノ水が一番だと思い選択した。
 しかし、よくある話、N大理工学部の1年の教育課程は千葉の北習志野校舎で授業が行われる。がっかりというより、そんな所へどうやって行くの?

 思った通りで、単線の新京成の北習志野から歩いて30分、校舎の窓からは自衛隊の落下傘部隊の練習風景が見える場所だった。
「なんだかなぁ・・」

 地元の調布も田舎だが、ここもなかなか負けてなかった。
小型飛行機の滑走路もあり、スケボーやるにはいい。でも滑走路は地元の調布飛行場にもあり、珍しくはない。それでも空が広いのだけは気持ちがいい。習志野は平らだった。
 
 私はお茶の水の学生街での楽しい大学生活を想像していたのだが、いきなり裏切れられた感はあった。さらに恐怖なのは、1年目で落第すると、千葉に居残りとなるのだ。
それと、想像もしてなかったが大学でも体育がある。いい加減にしろと思った。
グランドも広いし、体育の教師も気合をいれて新入生をしごく。私のような浪人して煙草漬けのなまりきった体には相当にきつかった。

 また、理系の大学の場合、課題実験が多くあり、その都度レポートの提出が必要となる。ペーパーテストもあるが、それは事前に回答がでまわっていたりして、前日準備だけで何とかなる。

 何とかならないのがレポートだ。当時はワープロもないので、万年筆でレポートを書く。そう言えば大学の入学祝は万年筆が鉄板だった。
 レポートだが、当然、自分の筆跡となるので、今時の学生のようにパソコンを使って、インターネットのページをコピーして、適当に手なおし、提出日の夜中の11時50分にデータを提出する。そんな嫌がらせは出来ない。
 
 このレポートも大変なのだが、一番大変なのはやはり通学だった。
千葉高速鉄道などない時代だから、地元の調布から北習志野までは、乗り換えのタイミングが悪いと約2時半間かかる。朝、早く家を出る。大学から帰ったらレポートを書く。予習復習と勉強もする。
 「これが大学生活かぁ、大変だ」

 私は今まで学校という場所で真面に勉強したことがなかった。だから新鮮だった。特にレポートは正解がなく、黒白がつかず、その結論へのアプローチ、発想などが評価された。

 暴走族から大学入るため。取り急ぎ受験のマルバツ式しか勉強していなかった私。だからそんな講義や勉強が面白かった。教授にも可愛がられた。
「俺も結構インテリ?」アホな気持ちにもなっていた。
この時期、私は自分で考えて勉強をすることを身につけたと思う。

 そして、しばらく通っていると習志野の広々としたキャンパスは、私のような自然好きには馴染み、気持ちのいい場所となった。
当時の新京成は昼間など1時間に1本程度しか電車が走っておらず、線路越しに草野球などして遊んでいた。地方の高校生活のような緩やかな時間が過ぎ去っていった。

 1年後、高校時代には考えられないような優秀な成績で私は進級し、お茶の水、駿台校舎へ行くことになった。
 
真夜中の散歩
 古い伝統のある大学は、昔から理不尽な新入生歓迎イベントがある。N大もその例に漏れず、そんなイベントがあった。
 それは「真夜中、山手線に沿って徒歩で一周する」という新人歓迎のイベントだ。5月の連休前に実施された。

 深夜0時、N大の駿河台校舎からスタートして、朝までに山手線に沿って、徒歩で1周する。要所要所にチェックポイントがある。

 これは自由参加なのだが、参加しないと単位がもらえないなど不穏な噂も流れている。また伝統あるイベントなので思ったより参加人数は多かった。
先輩達(実行委員)は途中で食料や飲み物を補給したり、また伝統ある特別なサポート(酒類)も用意されていた。

 「面白そうだ」
 この手の馬鹿げたことをするのが大学だろうと思っていたので、私は習志野生活で仲よくなった同期と参加した。
都心の深夜の散歩、独特の雰囲気だった。仲間と話しながら歩く、楽しい。理系なので男が多い。そして酒が入りテンションが上がる。

 少し時間が経つと暴走する学生がチラホラ、歩き酒だから当然悪酔いする。ゲロをはいて道路に寝てしまう奴、深夜の女子大に忍び込む奴、交番に小便するアホ。
そんなアホが途中で警察に補導される。駆けつけてきたパトカーに先導されたサポートカー、最後はハチャメチャの騒ぎになっていった。

 でも学生という立場を世間が大目に見ていた牧歌的な時代だった。
馬鹿やっていても大人達は
「たまには、いいんじゃない」
注意のみでイベントは進んでいった。

 しかしこんな寛容な時代はこの年で終焉した。
クレームに耐えきれず、と言うよりトップが変わったからだろう。大学側は翌年中止するようにと学生(実行部)に言い渡した。
つまり私達がラストウォーキングとなった。
 
 そして、翌年この深夜の歩け歩け大会に変わるイベントを計画して実行せよと、私も含めて10人が新たなイベントの実行委員になる。
予算は60万円。そしてこのイベントでボロ儲けをしてしまう。

 この時点で私は、そんな面倒ごとに巻き込まれるとは想像すらしていなかったが、それでも夜明けは美しかった。

上野 不忍池 東大キャンパス側
御茶ノ水 神田川、聖橋からの眺め

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