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二人は気紛れな運命に不意を打たれた。

ほんの感想です。 No.30 夏目漱石作「門」 明治43年(1910年)発表

久しぶりに、「この本は、読んだことがあるかも」という感覚を得た作品でした。つまり、一度挫折した作品だったのです。「小六」という名前を見て、そのことを思い出した、夏目漱石作「門」です。

今回は、「それから」を読了し、はやる気持ちを押さえて開きました。登場人物も舞台も、それぞれ異なるけれど、「友人の妻を奪う決意をする」物語の次に描かれた、「友人の妻だった女性との結婚生活」の物語に、「その後どうなったの」、という上品ではない興味が大いに感じられました。

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私が知りたかったことは、新潮文庫版で約290頁の作品の中で、209頁から210頁の中に凝縮されていました。

まず、「門」の宗助は、どのような心の状態で、友人安井からその妻御米を奪ったのか。「それから」の主人公代助には、恋による衝動の強さを感じましたが、宗助は、どうだったのか。それは、次の記載から、読み込める気がしました。

世間は容赦なく彼等に徳義上の罪を背負わした。然し彼等自身は徳義上の良心の責められる前に、一旦呆然として、彼等の頭が確かであるかを疑った。彼等は彼等の眼に不徳義な男女として恥ずべく映る前に、既に不合理な男女として、不可思議に映ったのである。其所に言訳らしい言訳が何もなかった。だから其所に云うに忍びない苦痛があった。彼等は残酷な運命が気紛れに罪もない二人の不意を打って、面白半分穽(おとしあな)の中に突き落としたのを無念に思った。

「呆然として」「頭が確かであるか」「不合理」「不可思議」「運命に不意を打たれた罪もない二人」などの言葉から、宗助は、彼と御米の二人が、「恋による衝動に不意を衝かれ、合理性のない行動をとってしまった」、と考えていると読めないでしょうか。

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次に、宗助は、御米を得た代償を、どのように考えているのか。それは、次の描写から、わかりそうです。

彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくは、それらから棄てられた。
彼等は自業自得で、彼等の未来を塗抹した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認めることができないものと諦めて、ただ二人手を携えて行く気になった。

宗助は、「親族や友人、そして世の中から爪弾きされている」と認識し、「その状態は、自業自得だから、二人で甘んじて生きよう」、そう考えているようです。

宗助と御米がこれほどの社会的制裁を受けるのは、当時の姦通罪の存在にあると考えられます。その内容は、広辞苑によれば、次のとおりです。

夫のある女性が姦通する罪。相手方も処罰される。親告罪の一つ。男女平等の原則に反するので、1947年の刑法改正により削除。

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約290頁のかなりの部分が、世間から身を隠すような宗助と御米の暮らしぶりの描写に割かれています。それは明るいトーンではありません。しかし、そのように二人が数年を過ごしてきて、繰り返しとなっている日々には、それなりの温もりが感じられる気がしました。

それに対し、宗助が、未だに安井を怖れる様子からは、かつての友に対する彼の罪悪感の深さが察せられます。宗助は、世間の目には、それなりに処せるようになったけれども、安井に対しては、それができないということでしょうか。

自分の関心事に向かってガツガツと読んでしまった反省があるので、丁寧な再読を試みようと思います。そのとき、何か発見があれば、またお知らせいたします。

ここまで、読んでくださり、どうもありがとうございました。

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