あなたの愛に、私は耐えられないかもしれない。
谷崎潤一郎は、「愛する」という行為に膨大なエネルギーを費やしている。これまで、数作しか読んでいないのですが、そんな印象を受けています。
そして、彼の「愛する」は、様々な形態があり(あるいは形態の変遷があり)、いずれも、使うエネルギーの濃度が高い。そのため、谷崎潤一郎が「愛する」対象は、自ずと限定される気がします。
例えば、『痴人の愛』で、主人公の河合譲治は、理想の女性の卵として少女ナオミを発見し、彼女にありったけの愛を注ぎます。彼の想像を超えて、美しく強く変身していくナオミ。やがて、河合の制御が及ばない女性になったナオミに、彼はひれ伏します。そのときのナオミこそ、主人公、あるいは谷崎潤一郎の「愛する」対象の完成形、と感じられます。
乱暴ではありますが、もし、河合譲治=谷崎潤一郎ならば、ナオミとなる女性は、真に不羈奔放でなければ、谷崎先生に相手にされない気がします。ある人がナオミっぽい演技を試みても、中途半端な情けを男に掛けたとたん、一発退場となるものと思われます。
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前置きが長くなりました。
本題は、谷崎潤一郎が『猫と庄造と二人のおんな』で示した、女性美への愛です。この作品の主人公の庄造は、猫のリリーに愛を注ぎます。彼は、リリーをあたかも美しい女性の如く感じながら、愛するのです。ちなみに、リリーがどう受け止めているのか、わかりませんが、彼女といるときの庄造の至福の様からは、「リリーが嫌がっている」とは感じられません。
庄造がリリーについて語る個所は、読み進めるうちに、彼と同じような気持ちになり、猫のリリーに熱い視線を浴びせている自分を感じます。例えば、これです。
もしも外形だけで云うなら、庄造だってもっと美しい波斯(ぺるしゃ)猫だの暹羅(しゃむ)猫だのを知っているが、でもこのリリーは性質が実に愛らしかった。蘆屋(あしや)へ連れてきた当座は、まだほんとうに小さくて、掌の上へ乗る程であったが、そのお転婆でやんちゃなことは、とんと七つか八つの少女、――いたずら盛りの、小学校一二年生ぐらいの女の児と云う感じだった。
何という可愛らしさ!
また、リリーの始めてのお産では、押し入れの彼女を、庄造は、薄く開けた襖越しに心配します。そして、リリーが「ニャア」と鳴くたびに、襖を開けて、彼女の様子を確認するのです。そこで庄造が感じたことが、次のように記されています。
畜生ながらまた何という情愛のある眼つきであろうと、その時庄造はそう思った。全く、不思議のようだけれども、押入の奥の薄暗い中で、ギラギラ光っているその眼は、最早やあのいたずらな仔猫の眼ではなくなって、たった今の瞬間に、何とも云えない媚びと、色気と、哀愁とを湛えた、一人前の雌の眼になっていたのであった。彼は人間のお産を見たことはないが、もしその女が年の若い美しい人であったら、きっとこの通りの、恨めしいような切ないような眼つきをして、夫を呼ぶに違いないと思った。
これほど真剣に気持ちを吐露する庄造には、「愛する対象」に、猫だ、人間だという区別はない。あるのは、愛しいか、愛しくないかだけ。そんな気合を感じます。
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これから谷崎潤一郎の作品を読むに当たり、「愛する」という行為について、形態や、エネルギーの濃度、そして、「愛した」対象について、注目していきたいと思います。
もし、谷崎潤一郎に、愛されたなら、その愛に、私は耐えられないかもしれない。
もし、谷崎潤一郎に、愛されなかったなら、それはそれで、とても幸福かもしれない。
ここまで、お読みいただきありがとうございました。
*谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』の過去記事です。
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