私の歴史の中で、私自身でないような、そんな二十歳の私
ほんの感想です。 No.07 坂口安吾作「風と光と二十の私と」
昭和22年(1947年)発表
坂口安吾が、昭和二十一年四月、「新潮」に発表した「堕落論」は、戦後の混迷の世相に大反響を呼び起こしました(ちくま日本文学「坂口安吾」年譜より)。「風と光と二十の私と」は、その翌年一月に発表された随筆です。
「堕落論」を発表した年、坂口安吾は、四十歳になります。その安吾は、「風と光と二十の私と」小学校で代用教員をしていた二十歳の頃を振り返ります。その時間は、彼にとって次のような時間だったと記しています。
教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思い出すたびに嘘のような変に白々しい気持ちがするのである。
坂口安吾の随筆には、饒舌で、しかも、その中にたっぷりと彼の感情が込められている、というものがあります。例えば、生家や両親に関することは、特に、父親に対する複雑な思いのためか、一文を書くごとに、昔の感情が蘇り、それを記すために、さらに一文を加えていく、そんな書き方のように感じられます。
こうした随筆を読むと、坂口安吾は、とても情の濃い人なのだな、という印象を持ちます。
それに対し、「風と光と二十の私と」は、感情的なこだわりがない、静かな落ち着きを感じました。その理由を考えた時、坂口安吾が、この随筆で、「誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時がある」と書いていることが気になりました。
さらに、「その老成する一期間は、精神が肉体に苦しめられる年齢に至っていない頃であり、やがて、肉体が堕ちると、その期間は終わる」というようなことを書いています。
つまり、性的欲求とその充足に伴い、人はそれまで知らなかった苦しみを知る、ということを言いたいのだと思いました。そして、代用教員をしていた頃、彼はまだ、そのような苦しみを知らなかったのでしょう。それを懐かしむ気持ちが、この随筆に静かな落ち着きをもたらしたのかもしれません。
あらためて、坂口安吾は、恋に苦しんだ人なのだ、と思いました。