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1986年はじめての海外 アメリカ #1出発まで

私の初海外は、高校の夏休みを利用してのホームステイでした。
ちょっとした西海岸観光をした後、姉妹校に通う生徒とその家族の家に1ヶ月間ホームステイをしながら姉妹校のサマースクールに通うという、学校主催の希望者参加型のものでした。
 
時はプラザ合意の翌年、1986年。
200円半ばだったドルが1年で一気に150円前後になったバブルの初期です。
親の話によると、このレートのおかげで申込費用が後で半分近く返金されたそう。

私はその頃、洋楽や海外の雑貨に夢中で、一緒にアメリカに行く洋楽好きの別のクラスの友達と廊下ですれ違うたびに、楽しみだね!と、言い合っていたのですが、どうも現実味がなく、ずっとテンションが上がらないまま過ごしていました。

夏休みの出発に向けて、少し前から出発の準備が始まりました。
まず、パスポートを持っていなかったので、パスポートの取得から始まりました。

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パスポート(数次旅券)

当時のパスポートは、今のサイズより大きくて、しかも数次旅券と書いてあります。
私が作った数次旅券は、5年間の期限でその間何度でも使える今と同じタイプのマルチプルなパスポート。この他に1回きりしか使えない一次旅券というパスポートもありました。
そんなことも知らずに、学校帰りに友達と撮った証明写真は制服で、私はこの制服姿のパスポートを二十歳過ぎまで使うことになるのでした。

それと、全然覚えていないのですが、当時はアメリカ入国時、誰でもビザが必要だったようで、スタンプがありました。どうやらビザも取っていたようです。

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アメリカ ビザ

初海外の用意はまだまだ続きました。
ホストファミリーと文通をしたり、ホストファミリーへのお土産を買ったり、大きめのスーツケースや、日差しが強いとのことでサングラス、お金は細かいドルの現金と、トラベラーズチェックを家の近くの銀行で用意してもらいました。
そのトラベラーズチェックは、ビニールのカバーがしてあって、カバーを開けると2つ穴で閉じられていて、今まで嗅いだことのないはじめてのにおいがしました。

そして出発の日、学校まで親が見送りに来てくれて、皆でバスに乗って成田空港に向かったのを覚えています。
参加人数は20人くらい。
春休みに行くヨーロッパ1ヶ月間のホームステイもあったのですが、アメリカよりもヨーロッパの方がかなり人数が多く、人気でした。
当時はアメリカよりもヨーロッパに子供を行かせたい親が結構いたのだと思います。
 
先生や親たちに見送られて、私たちを乗せたバスは成田空港に向かいました。
成田空港は思ったよりも遠くて、やっと着いたと思ったら、そこは検問所でした。
制服を着た警察官なのか、検問員なのか、バスに乗り込んできて一人一人のパスポートと顔のチェックそれから手荷物のチェックが始まりました。


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