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彷徨うおっさん75 移ろいゆく幸福観(5/6) 節制の時代 個人の時代

前回は、人間を経済価値に置換えようとする思想、財産や社会的地位と言った具体的なものを追求する動きについて、
それが現在では苦しい状況につながっていることを述べた。
一方で、旧世代のそうした生き方を信奉する限り、貧困を意識せざるを得ない人ばかりになり、
もっとぼんやりした価値観として、ミニマリストやオフグリッド生活者のような、
どちらかと言うと抽象的な「生き方」という概念に幸福を感じる人に、近年は注目が集まっていることを述べた。

今回はそれらを踏まえつつ、論考の冒頭で述べた、③ 集団から個人の時代になってきた について述べようと思う

③ 集団から個人の時代になってきた

<節制の時代と個の時代>



前回からやや話が飛ぶが、宗教というものはかつて、原初的な部分や理想における面で、経済活動とは一線を隔すものであったと思う。
最近の寺院の運営の有様についても述べてきたが、
その文化や存在を存続させるために、本質と真逆の煩悩に頼る必然性に矛盾を感じる人が増え、宗教が形骸化した感がある。

かつて時代が栄華を極め、そこから衰退するたびに、宗教という神秘と知性に満ちた界隈が、一般大衆の逃げ場になった。
しかし、宗教が形骸化した現代においては、人々は宗教組織に見切りをつけ、個々が原初の宗教的な生き方を選んでいる傾向にあるように思う。

一つの信仰ではなく、個々の生き方や内面を各々で追求する。つまり個の時代である。

個の時代になった要因は他にもあるだろうが、それでも昨今、修行僧のごとく孤独に節制し、
質素で素朴な生活を尊び、そこにこそ幸福を見出す風潮が無視できなくなってきたと思う。

一時代前の物欲の権化達とは真逆の価値観である。

例えば昔は、たった1回のレジャーにしても、一式道具をそろえたり、わざわざカッチリとしたトランクを購入する人が割といたように思う。
最近はそれをやると、エコだの無駄遣いだので、スマートではないとみなされることの方が多く、逆にあまりいなくなったように思う。

おっさんも10年前ほど前だが、高齢の母が、たった一回の海外旅行のために10万円もするピカピカのトランクを新調していたのを思い出す。
やめておけ、自分のを貸すと言ったのだが聞き分けるはずもなく、小さくて使い勝手の悪いものを買って、結局1回しか使っていなかった。

経済的な面でもそうだが、トランクは場所ふさぎでもあるため、現代はレンタル・シェアが主流である。
まして、どうせ空港で乱暴に放り投げられるような代物である。
良いものを、しかもたった1回の遠出のために買う意味など、通常全くなくなってきた時代である。

そういえば服も生活必需品も、きちんとしたものをそろえよと、旧世代ほどよく勧めてくる。

だが庶民が、滅多にない友達の結婚式なり、親戚の葬式に出るためだけなら、概ねレンタルで十分。着付けだってそこでしてくれるから何も問題などない。

そしてシェアやレンタルが主流となってしまった状況では、つまらない見栄も働かない。お金に余裕がある人もシェアを選択しがちになる。
(むしろ率先してシェアサービスを使う人すらいる)。

結果、全体としてシェアすることに躊躇が減り、見栄もそれ自体がみっともないぐらいに考えられ、人々が総じて質素になっている。
見栄を張り、質素を避けるは人目を気にしてのことだが、順番は逆にせよこの面でもこの時代の片鱗が見て取れるようでもある。


<孤独の時代>



パートナーについても、旧世代は必需品だと言って譲らない人が多い。一方現代は、恋愛はコスパが悪いと切り捨てる若者も珍しくない。

おっさんも過去の論考で述べてきたが、恋愛自体が先鋭化されてしまって、わずかでも野暮ったい感じや、清潔感の無い姿、雰囲気のない態度は女性に拒絶されかねない。
そうした相手を隣に維持するためには、過剰な消費と消耗が予想されることは間違いなく、全く割に合わないどころか、不幸ですらある可能性もあると思っている。

皆婚時代に家庭を持ち得た人は、こうした事実を実感としてとらえることが非常に難しいようだが、
現代は大雑把に言って、良くも悪くも個人が自身の生き方を突き詰める時代でもある。
やりたいことが無くても良い。質素に孤独に生きても良い。物を持たなくても幸せ。パートナーも苦しいならば必要としない。

自由主義が極まり、恵まれた時代ならではの傾向であると同時に、
旧世代に照らし合わせると不幸な状況であると定義されてしまうので、それを避けるための価値観の変遷でもあるように思う。

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