繊細なひとこそ「切りはなすこと」をハックしたい
友だちと散歩をして「日本人は、断るとか意見の否定が=人格否定になりがちかもね」という話になった。わかる。予定を断られただけなのに、嫌われている?と思ったり、「その考え方には反対」ってだけなのに人柄を否定されたと感じたりする。
ただその案件に対して違う意見を持っている、ってだけなのに、「これを言って傷つかないだろうか?」と恐れてしまう。もちろん「言い負かしてやりたい!」なんてことは思っていないし、意見は人間と切りはなしていいはず!って思うのになあ。
デンマークはそれを心得ているひとがほとんど。それが故に、かなりはっきり失礼なことを言われることもある。たまにそれで落ち込む。でも、それは必要以上の落ち込みであると知っている。
その時に思い出す、「反応しない練習」という本の大好きな引用。ざっくりいうと「コップに水が半分入っているのをみて、”半分しか入っていない”と思うか”半分も入っている”と思うかって話がよくある。半分も、って思える人が勝ちですよみたいな風潮さえある。でもそうじゃなくて、”水が半分入っている”なのである。」というもの。(めちゃくちゃ意訳してます)
本当は「半分しか入ってないなあ〜〜」って思ったのに「半分も入ってるって思わなきゃ!」って、無理やりポジティブにねじ曲げる必要はない。ただ、水が半分入っている。そこにいいも悪い意味もない。わたしはこれ、ほんとに大事だと思ってる。勝手に意味づけしないこと。
ちょうど先日読んだ風井麻希さんのnoteでも同じことを言っていた。ポジティブに!全てを受容するよ!っていう世の中も悪くないけれど、きっとそれだけじゃちょっとアンバランスだ。「一旦ニュートラルに受け止める」を手なづけると大変生きやすい。
わたし的に、超中立でなんとも思っていないできごとでも、ひとに話すと「大丈夫?落ち込まないで!!」と全力で励まされることがある。「あ、全然自信失ってないです!一ミリも凹んでないです!」って言ってるのに「元気を出して!」と言われるのはフシギだ。
でもそのひとにとっては「悲しいことが起きた」ように見えているんだと思う。わたしは困っていないのに、わたしの課題に対して他人が困っている状況が起きている。
これって、かの有名な「嫌われる勇気」の「課題の分離」にも似ている。課題の分離とはざっくり「人の課題にふみこむから、無駄にヤキモキして人間関係に問題が起きる。課題には立ち入らないの!」という考え方。
よくある例だと、子どもが勉強しないことに悩む親がいるけれど、勉強しなくて困るのは子どもなんだから立ち入らない。すると楽ですよ、みたいな話。
最近わたしは、他人には干渉せずいるんだけれど、他人から立ち入られることに若干アレルギーを起こしていた。そして、相手が問題を抱えてしまうことを必要以上に恐れている。
みんなニュートラルになったらいいのに!って思う。えらそうに、自分ができてるつもりになっている。
でも、これこそ、わたしが課題の分離ができていない証拠だときづく。
切りはなすって、スーパードライに聞こえがちだけれど、信じているという後ろ盾があるからこそできること。スーパーウェットなこと、実はね。
「ニュートラルに、切りはなして」は愛のあるひとができることなのかもしれない。