【無料記事】チェルノゼム Schale4 舞台『銀河鉄道の夜』観劇記録・その2
その1はこちら:
【無料記事】チェルノゼム Schale4 舞台『銀河鉄道の夜』観劇記録|此瀬 朔真
引き続き、「チェルノゼム Schale4 舞台『銀河鉄道の夜』」について記述する。まだ粗削りな部分も多いがご容赦いただきたい。
前回の記事と同様、上演の内容について触れている。未観覧の方においては十分注意していただきたい。
カムパネルラの上着
劇の終盤、カムパネルラに父親が上着を着せかけるシーンがある。
これはカムパネルラが川で溺れたことを受けての演出であると考えるのが妥当だが、私は上記の賢治と政次郎のやり取りを連想した。
自分より先に亡くなる息子を無条件に褒め称えるのは難しい。しかし、息子が心に決めたことを認めてやるのは親の偉大な仕事であると思う。
父親は悲しみを堪え、銀河の果てへ去る息子を労わる。舞台のうえに言葉はなかったが、その気持ちはカムパネルラへ充分に伝わったはずだ。ジョバンニの切符のように、カムパネルラは父親の上着をいつまでも大切に持ち続けるだろう。
カムパネルラの上着について、もうひとつ。
地上を去る者へ与える服、という意味で「竹取物語」でかぐや姫が着せられた天の羽衣を連想した。これは現世と決別するための服だ。これを与えることで父親は息子を送り出す決意ができて、少年は親友――ジョバンニが次の旅へ向かうのを見届ける決意ができた。
ひとつ異なるのは、天の羽衣を着たかぐや姫が育ての親である翁と媼、そして帝を想う感情を失ったことに対し、この親子はそうでなかった点だ。彼らはどちらも、悲しさを抱いたまま進んでいく。
「銀河の人」
銀河鉄道に乗り合わせる二人の大人、鳥捕りと燈台守。
彼らは銀河に暮らし、そこに生業を持つ人々である。
彼らにも「生前」と呼ばれる期間があったのかもしれないが、そこは原作でも語られない。ともかく、ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗車した際は、銀河に住まう人々として現れた。
彼らの存在によって、銀河鉄道は死者たちを運ぶだけではなく、彼らの「通勤電車」としての性質を得る。死者たちと語らいながら列車に乗り、銀河を行き来しては注文に応じて鳥を捕まえ、あるいは灯台の故障について文句をつけてくるのを電話越しに言い返して、暮らしている。
出演者によるスペースのなかで「鳥捕りは銀河鉄道に子供が乗っていることの意味を理解している」という趣旨の発言があり、私はこれに強く心を打たれた。
鳥捕り、そして燈台守はいつものように銀河鉄道に乗り込み仕事へ出かける。周りの乗客は大抵老人である。それはそうだ、大抵の人は老いて死ぬ。時折は若者も見かけるが、不幸な事故に巻き込まれたか、不運にも病気が手ごわかったか。まったく、気の毒なことだ。
そう思っている彼らの目に、少年たちの姿が飛び込んでくる。
彼らは愕然としたはずだ。
死者を運ぶ列車に、子供が二人も乗ってきた。なんということだろう。親の姿も見えない、ならばあの子たちは二人だけでここへやってきたのか。こんなに悲しいことがあるものか。いったい彼らの身に何が起きたのだろう。
気の毒だ。本当に、本当に気の毒だ。
しかしどんなに気の毒でも、自分たちはただの銀河の住人で、人の死を覆すことなどできやしない。
ならばせめて――お客には内緒だが――捕ったばかりの鳥をおやつに分けてやろう。窓の向こうに広がる銀河を案内しよう。あの綺麗なアルビレオの観測所も見せてやろう。さびしい旅路を、少しでも明るくしてやろう。
彼らはそう思ったはずだ。
さらにこのあと、鳥捕りが姿を消してから再び子供たちが二人乗ってくる。付き添いの青年――子供たちの家庭教師だと言う――に話を聞くと、どうやら船の事故に巻き込まれてこの客車に辿り着いたらしい。燈台守は事情を打ち明けた青年に慰めの言葉をかけ、子供たちと青年、そしてジョバンニとカムパネルラに美しい苹果を与える。
配信映像のなかで、子供の姉のほうが帽子を落としてしまい、燈台守がそれを拾ってそっと戻してやるシーンが映っていた。おそらく演出ではなく偶然なのだろうが、これも燈台守の優しさを表す一端に違いない。
鳥捕りと燈台守は、銀河に暮らし、そこに生業を持つ人々である。地上とは異なる秩序のもとで営まれる世界、そこに住まう人々。すなわち「銀河の人」だ。命あるままに銀河鉄道へ乗り込み、そして現世へと帰還したジョバンニ、つまり「地上の人」とは対照的な存在と言える。
文字通り住む世界のまったく違う人々が、束の間に交流するのが銀河鉄道という空間であり、しかも「銀河の人」と「地上の人」は互いに通じ合えることをこの演劇作品では描き出している。
とりわけ鳥捕りは、やりかたこそ不器用であったものの積極的に少年たちに話しかけ、ジョバンニの持っている切符と自分の切符を比較して落ち込む(オーディオコメンタリーとして開催されたスペースにおいては出演者から「己の切符のザコさ」という衝撃的なパンチラインが飛び出した)など、人間臭い面を強調した人物として描写されている。
銀河鉄道に子供が乗っていることの意味を理解し、それを悲しみ、少しでも彼らを慰め励まそうとする。その姿は、住む場所が銀河であれ地上であれ同じもののはずだ。
現実の「地上」においても、あらゆる面で自分と異なる人々は数え切れないほど存在する。そのために起こる衝突は後を絶たない。しかし、他人の悲しみに心を痛め、喜びを分かち合おうとする気持ちは誰もが持っている。
宮沢賢治の掲げた「ほんとうのさいわい」へと至るための、これはヒントのひとつなのかもしれない。
私的な銀河の旅はもうしばらく続く。
演劇という可能性を、思いつく限りもっとも美しい形で示してくれたチェルノゼムさまに再度深く感謝を申し上げる。
BGM
「銀河鉄道の夜」予告編(日本語版) - YouTube
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小説家・此瀬 朔真によるよしなしごと。創作とか日常とか、派手ではないけれど嘘もない、正直な話。流行に乗ることは必要ではなく、大事なのは誠実…