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科学と宗教の精神的関係①

まず、原則から確認しておきたい。
科学の原則は「物事があって、それを一定の方法で誰でも観測できる」という所にある。

仮にそこに物が無かったとしても、他の物との関連性から結果的に存在を証明するというのも、科学の特徴だろう。

その延長線上で、科学は私たちに様々な発見や物事を提供してきた。

ここで一つ、考えてほしい事がある。

今より科学が進歩していなかった時代、例えば明治時代の人々の「幸福感」と、最先端をいく私たち令和の「幸福感」は進歩に伴ってどう変化してきたかということだ。

そしてそれはおそらく、そんなに変わってはいない。
むしろ心の内戦と揶揄される現在の方が、薄くなったのかもしれない。

ではなぜ、幸福感がそれに伴って変化しないのだろうか。

この問いは、人間の心と密接に関係している。

例えば、他人が得ている物(社会的地位や資源なども)を羨ましく思ったことはないだろうか。

ガラケーよりもスマホの方が、羨ましく思ったことはないだろうか。

そしてさらに、皆がスマホを持っていて、一人だけガラケーを持っていたらどうだろうか。

やはり、少し恥ずかしいと思うのではないだろうか。

要するに、幸福感の妨げとなっているのが、この心理なのである。

人と自分を比べて、一喜一憂する。

これは生活圏内に、入れ替え可能な物事(お金を出せば誰でも買える)が溢れてくるにしたがって、生活水準が可視化され、比較対象になったからだ。

そして、近年では新しい物がほしいという羨望感から、現在の日本では少なくとも劣っていたくはないという疎外感から、心を満たすために得たいという欲望に通じていく。それは恐らく本能であり、時に私たちが積み重ねてきた理性をも押しつぶす。

押しつぶされた理性は満たされなかった不満となり、それが集まると集団の狂気となる。

「わかっているけど変えられない」ことが増える。

そうなると心が麻痺し、弱っていく。貧弱な心では、貧しい幸せしか味わうことができない。
「貧しい」よりも「卑しい」の方が適切かもしれない。

いわゆる「無敵の人」や「変わらない社会人」が蔓延るのも、何をやっても満たされることのない心への不満の表れなのかもしれない。

多くの発見や、身の周りの進歩がどれほどあっても、私たちは無力感に苛まれ、時に絶望する。

そんなこと語らなくてもいいではないかと、外の空気が物語っているように思えてならない。


©心瑠華へべれけ

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