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4.神仏習合の始まり

 天皇が仏教に帰依していたり、天照大神が盧舎那仏の本地であるといったことについて、不思議に感じた方もいらっしゃるかもしれません。
 そこで、あらためて日本における神仏習合について述べていくことといたします。
 いわゆる仏教公伝とは、欽明十三(五五二年)に百済の聖明王が仏像と仏典を欽明天皇に贈ったこと指します。
 これが日本に仏教が伝来した始まりとされていますが、公式に伝わったという位置づけで、実際はかなり以前からさまざまなかたちで伝えられていたと考えられます。
 ここでよくいわれるのが祟仏論争です。
 欽明天皇が仏教を導入するかどうか尋ねたところ、蘇我稲目は導入を説き、物部尾輿はそれに反対した。それがきっかけとなり、親子二代にわたる抗争に発展したとされてきました。
 ところが近年の発掘調査により、これまで信じられてきたこの逸話が覆されつつあります。
 物部氏の本拠地後があった河内から渋川廃寺が見つかったのです。
 このことは物部氏の勢力圏内に仏教が浸透し、寺院が営まれていたことを意味し、それはとりもなおさず廃仏思想ではなかったことを表しています。
 一方、蘇我氏の居住地だった奈良の曽我玉造遺蹟からは神祇祭祀の遺構が確認されたとのこと。仏教導入を主張した蘇我氏も神道を否定していたわけではなく、共存を目指していたのかもしれません。
 『日本書紀』にも「排仏」という文字は見当たりません。
 こうして見ると、事実上、蘇我氏と物部氏はいずれも神仏習合の状態で、両者の争いは権力抗争であったことが推察されます。
 古来から今に至るまで、世界各地で宗教戦争が後を絶たないことを思えば、実に希有なことではないでしょうか。もっとも、神道を宗教と位置づけるかどうかも難しいところではあるのです。
 さて、仏教をいかにするか、最終決断は天皇が行いました。

日本最古の仏像。奈良は明日香の「飛鳥寺」にて撮影。(写真・著者)


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石川真理子
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