知を主座に置く者は、美を見ることはできない
無知は罪だという考え方があり
実際、それは肯定するほかないといえます。
一方で知は人を傲慢へと簡単に向かわせます。
知を真に知る人は
それにより逆に謙虚になり
果ては限りなく無心に近づいていくものでしょう。
今、「美」は知識として語られていると感じます。
どこぞのなにが、どんなふうに魅力的か。
それは誰がつくったものであって、
その誰かはどんな人物であって・・・
ほんとうのところ
そんなことはどうだっていいのです。
五月蠅いばかりといってもいい。
たとえば朴訥とした樂茶碗にしても
圧倒的な美しさを感じるかどうかは
その人の内的熟成によります。
つまり美とは内的世界の映し鏡でもあるのです。
そこに理屈は不要です。
写真:魚住心
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