「愛について」彼の見解
この記事を書いたあと、眠りながらあれこれ思索をめぐらせて、さらに思うところがあった。
それを纏めようとしたのだが、先に息子から意見が届いた。私が書いたものを読んだうえで、彼の考えを示したものだ。
私の思索はおいておき、まずは彼の見解を書き残しておこうと思う。
息子の見解
ありがとうございます。
ここまで色々と考えたりまとめてくれて嬉しいです。
書き出しも良かったのですが、一点物足りなかったのは、「大愛」と家族や恋人の「愛」を異なるものとして考えているところです。
ぼくの理解では、実篤はこれは1つだと見通しているのです。
ただ、それを理解するためには、「愛=執着」という仏教的な図式を一旦捨てる必要があります。 結局、恋愛を含む全ての「愛」はこの「大愛」から来ているのです。これによって人々は生かされ、互いの愛を知るんです。
けれども、人間はそこで留まらないんです。元に帰っていく、つまり大元の大愛を、目の前の愛や生命の奥に見通す眼力を持っているわけです。
そしてこの大元の愛を愛する心、真理を愛する心、これによって人は(能動的に)生きる訳です。
つまり、愛によって生かされ、愛して生きる訳です。ここに生命がある。
これは恋愛や身近な愛と切り離す、あるいは対立して考えるべきものではないのです。なぜなら、この愛のうちに全てが1つになるのですから。
そこまで理解すると、人生の意味がようやくわかってきます。家族の愛も真理の愛も。
そして、この2つは本質的に同じで、わけて考えるものじゃないんです。 というのが、ぼくの理解です。
それで仏教思想の話になった
彼の言わんとするところは、なんとなく理解できるような気がするのだが、「実篤がひとつのものと見通していた」ということについては、やはりわからないかもしれない。
その背景に彼は「愛=執着とする仏教的思想を一度棄てて」と述べている。
そう、そこなのだ。
仏教では愛をすなわち執着とは必ずしもしていない。
ここで仏教書をずいぶん読んでいる娘が、慎重に仏教における愛とは何かということを彼に語っていた。ともすれば仏教だけでなく、古代インド(と言ったらいいのかどうか)に伝わるブッダの教えについての書物なども彼女は読んでいるので、私よりもずっと仔細に語ることが出来ていたと思う。
私は大雑把な人間だから(だから禅が性に合うのだ)、細かいことはどうでもいいとすぐに面倒になってしまう。
ともあれ、仏教では愛を執着としているかどうかという点なのだが、それは少し異なっているといえるだろう。
私は「お釈迦様が説くのは、あたかも母がわが子を愛するがごとく人を愛せということなのだけどね」と応えたのだった(ということを今想い出した)。そして娘も同じ考えのようだった。
ただ、人間には煩悩があるがゆえに、なかなかそうはいかない。特に「三毒」とされる貪瞋痴(とんじんち)があるがゆえに、怒りや妬み悲しみといった苦を持ってしまう。
それが愛によって引き起こされてしまうことがあるのは人類の歴史が語るところだろう。
なかなか答えの出ないところだが、「大愛」と「愛」を分けて考えているのではないのだ。ゆえに「愛」が「大愛」に育つこともあると述べた。
ただ人はどうしても愛ゆえに救われるどころか、かえって悲しみや苦しみを経験するのは仕方ないことなのだ、というわけである。