ほのかな甘みが切ない特攻隊員のお菓子「海軍タルト」
神風特別攻撃隊=海軍特攻隊の隊員が出撃の際に食したといわれるお菓子をご存じですか。
【海軍タルト】がそれです。
鹿児島県は鹿屋にある老舗菓子店・富久屋が、その当時、特攻出撃する若者達のために、せめて…という思いで作ったものです。
特攻隊員が人生最後に口にしたであろう【海軍タルト】。
「若くして散った彼らのことを忘れないで欲しい」との願いと共に、今も、復刻版が販売されています。
「特攻隊のお兄ちゃんたち」を今も忘れられない
海軍タルトと出会ったのは、鹿屋航空基地史料館の25周年記念行事が開催された2018年の8月のことでした。私は海上自衛隊鹿屋基地にて講演させていただくことになったのです。
史料や史跡の調査も兼ねて、常に前もって現地入りするようにしていますが、その際も講演の前々日に鹿屋入りしました。そして、周辺に点在する戦跡を辿ったあげく、富久屋さんに立ち寄ったのです。
出迎えてくれたのは、実にかわいらしい女将さんでした。子どもの頃は美少女、若い頃はさぞや美人、いえいえ今だって本当にかわいくて美しいです。
店内には特攻隊員の写真や新聞記事、関連資料なども置いてありました。
「とにかく、ひとつ食べてみて」
そう言って差し出された【海軍タルト】を受け取った私は、思わずハッとしました。
手のひらの上に載せられたお菓子の、そのやわらかさと儚さが、まるで特攻隊員の存在そのもののようで、息をのんだのです。
「私は当時5歳だったけど、やさしい特攻隊のお兄ちゃん達が大好きでね。今でも忘れることができないんですよ」
そう言って、お店に飾ってあるパネルを持ってきてくれました。
「ほら、見てください。何か包みを抱えているでしょう?これが海軍タルトじゃないかって言われているんです」
私は、さも大事そうに抱える姿を眺め入っていたのですが、次第にぼやけてきたかと思うと、輪郭を失いました。大粒の涙を、危うく額に落としそうになり、慌てて指先で抑えたものです。
沖縄まで一時間あまり。彼らは海上で海軍タルトを食したのだろうか
タルトというと、レアチーズタルトとか、クルミのタルトとか、そういったお菓子を想像するかも知れません。
でも【海軍タルト】は、7ミリほどにカットされたスポンジケーキとカステラの中間のような細長い生地に、うっすらとあんこがサンドされています。
今の感覚でいえば、タルトというよりは、「あんこサンドケーキ」といったところでしょうか。
飛行士が操縦桿を握ったまま片手で食べられるようにと考えられた結果、そのようなかたちになったとのことです。
それにしても、沖縄戦の頃は、もはや小豆も砂糖も小麦粉も、材料のすべてが手に入りにくくなっています。戦争体験者が「甘い物など夢のようだった」と口をそろえて言うくらい、もはや希少価値でした。
それを何とか入手して、特攻隊員のために、お菓子に仕上げていたのです。
若い命が散ることを誰もが「なぜそこまでして」と思いながらも、黙って口をつぐむしかなかった。
隊員達も「こういう時代に生まれてきたのだから仕方ない」となかば諦め、「男である自分が行かなくてどうする」と自らを叱咤し、出撃するほかなかった。
征く方と、見送る方。
双方の想いが【海軍タルト】に集約されているともいえるでしょう。
それにしても・・・
特攻隊員は最前線の基地・鹿屋から出撃して、沖縄まで優に一時間以上も海上を飛び続けます。
もちろんその間、敵が黙って見ているわけではありません。弾幕の中を無我夢中で飛んでいくのです。
当時の日本の戦闘機には、防弾防火のための機能は備わっていませんでした。ゆえに弾が当たればたちまち火を噴いてしまう。
それでも彼ら特攻隊員達は飛んでいったのです。何もかも承知でしたでしょう。日本が負けることも。
そうした状況下で、沖縄まで飛ぶ一時間あまりの間に、海軍タルトを食べることが出来ただろうか。
私は、ふと、そんなことを思いました。
大切に抱えて搭乗し、もしかしたら包みを空けたかも知れない。
彼らは何を思ったでしょう。
私が隊員なら、故郷の母や、姉や妹たち、あるいは小さな弟に、この甘いお菓子を食べさせてやりたい、と、そう思うような気がします。
どんなに喜ぶだろう、今からこれを届けてやりたいくらいだ・・・と。
もしかしたら、それこそが目前に迫る死を、人生の終わりを、嫌と言うほど実感した瞬間だったかもしれません。
人間の弱さを勇者の心意気で包み出撃した若者たち
薄紙に包まれた【海軍タルト】を注意深く取り出して、そっと口に含んでみました。
ほろりとやわらかく、ほのかな甘さが広がっていく。咀嚼するほどもなく舌の上で溶けていき、あとは涙に取って代わられていきました。
その時、家族のことを思いながら海軍タルトを手にした隊員が、滂沱の涙を流しているのを見た気がします。
私は思いました。
きっと、飛行機の中で泣いていたんだ。
元気な笑顔だけを残して出撃し、誰にも見られない飛行機の中で、やりきれない想いを、一瞬だけ、吐きだしたのではないでしょうか。
だとしても、それは、まったく恥ずかしいことなどではありません。
それで彼らの名誉が傷つけられるなどとは大間違いです。
私はむしろ、そうした人間の弱さを抱え込んだ若者が征ったからこそ尊いのであり、顕彰と感謝と慰霊をすべきだと思っています。
海軍タルトを手に、感謝と祈りを捧げる鈴木典信中尉
包みを抱える写真の他に、もう一枚、別の写真があります。調べたところ、同一人物であることが判った、とのことでした。
それは、海軍タルトを右手に、まるで祈りを捧げているかのようにみえます。あるいは感謝であったかもしれません。
零戦に乗ろうとして抱えている写真と異なり、こちらは素手でタルトを手にしています。じっと眺めていると、その手の甲の皮膚の感触が伝わってくるようでした。まだ血潮が流れている時のぬくもりも、滑らかだけどしっかりとした男らしい皮膚の感じも・・・。
後日、国内外の各地で戦没者の慰霊を行っている仲間にこの写真を見せながら話をしていたところ、
「真理子さん、この手に触ってあげて」
と言われ、そっと指先で触れてみました。
おかしなことだと思われるかも知れませんが、その時私は、鈴木中尉の生きた姿に触れたような気がしたのです。
それからというもの、鈴木典信中尉のことが何としても気になって仕方なくなりました。
そこで懇意にしている鹿屋のH氏に問い合わせてみたのです。H氏は海上自衛隊OBで現在は史料館の会長を任官しています。
ほどなく、史料が届きました。
が、それは極めて少なく、手記や手紙、遺書などの類いはなかったということです。
茨城が故郷の、わずか21歳の青年飛行士
届いた資料からわかったことは、以下です。
茨城県出身、大正十三年生まれ。当時わずか21歳です。
海軍兵学校第73期生。所属部隊は谷田部海軍航空隊。
菊水二号作戦において、神風特別攻撃隊第一昭和隊として出撃命令が下る。布告番号は100。
出撃日時は昭和20年4月14日 午前11:30。
徳之島東方の敵機動部隊を攻撃するため、第二筑波隊、第二神剣隊と共に鹿屋基地から出撃。
使用機は零戦でした。
まだ、この頃(4月)は練習機まで使用するという状況ではありませんでした。
零戦は単座式ですから、機体の中では、たった一人です。
また、共に出撃した隊員たちを見てみると、一人を除いて、全員が学徒出陣、つまり、大学生です。なかには鈴木中尉よりも年上の隊員もいたことでしょう。学徒出陣の場合、だいたい22歳から23歳が主流です。
海軍兵学校を出ているのは鈴木中尉だけで、他の学徒隊員は少尉ですから、鈴木中尉が中心となって部隊を率いていくことになったのでしょう。
その後、ネットの情報を頼りに、もう少し調べて見たところ、以下のこともわかりました。
2015年4月22日にNHKの【茨城ニュースいば6】で放送された『元特攻隊長が明かした思い』で、昭和20年当時、谷田部海軍航空隊に所属していた香川宏三氏(当時89歳)が、鈴木中尉のことを述べていました。
それによれば、鈴木中尉は谷田部海軍航空隊から特攻要員として出撃した第一陣の隊長でした。
第一陣として、なんとか戦果を上げたいという切実な想いを抱いていたのでしょう。二枚の写真から深い祈りが伝わってきたわけが判った気がしました。
また、他の資料から、鈴木中尉は明るくて気さくな人柄で、わざととぼけて部下を笑わせるようなことがあったということです。
弱冠二十一歳、軍人として、隊長として、自らを律していたに違いありません。責任感が極めて強いひとだったのでしょうね・・・
下の写真が最期の遺影と思われます。やさしい目をした青年です。
敵艦を目指すも激しい段幕に阻まれて・・・
菊水作戦とは、沖縄来攻の米軍に対して、帝国陸海軍が大挙して特攻攻撃を加えた作戦で、昭和20年4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで至ります。
4月6日~12日の一号作戦において、6日に戦艦大和が撃沈されたのはよく知られるところです。
一号作戦における海軍航空隊の出撃機数は303機、そのうち特攻出撃は78機。
鈴木中尉が出撃した菊水二号作戦は4月12日から15日にかけて展開されました。
沖縄や九州は8日以降、雨が続いていたため、索敵(敵機の捜索)も攻撃も困難な状況にありました。沖縄に進出した米軍は好機とみて、多数の戦闘機を揚陸、さらにレーダーと防空砲火を強化しました。
12日からの菊水二号作戦は、こうした米軍の侵攻に対して総攻撃を加えるのが目的だったのです。
しかし・・・総攻撃と言えば勇ましいものですが、準備万端整った米軍からすれば、いったいどう見えたものでしょう。
特攻回避のための最新式のレーダーと(美濃部少佐がいうには領国の花火のような)防空砲火が整えられているのです。
そこに特攻機が突っ込んでいくことは、極めて困難でしたでしょう。
鈴木中尉が率いる第一昭和隊の10機は全滅しました。
ちなみに菊水二号作戦における海軍航空機の出撃数は405機。そのうち特攻出撃は92機でした。
帝国海軍は菊水一号作戦と二号作戦で、特攻機と特攻機以外の航空機を合わせても、相当数の飛行機を失いました。それは陸軍にしても同じでした。
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太平洋戦争時の特別攻撃については、述べたいことがたくさんあります。
まだ、日本は、私たち日本人は、今なお宿題を抱えたままだと、私は確信しています。
そして、毎年夏になるとまことしやかに言われる「反省」は、ちゃんと成されているとは思いません。
また、「神風」が代名詞のように使われていますが、「神風特別攻撃隊」は海軍で、陸軍の作戦部隊ではありません。そのように特攻作戦と特攻隊についての理解も、もはや混乱しているような状況です。
いずれそうしたことをまとめて執筆し、書籍として刊行します。
ともあれ、今回は現地に行かねば決して知り得ない【海軍タルト】についてお話しいたしました。
富久屋のサイトから注文も出来るようです。電話をしたほうが早いかも知れません。
*富久屋
なお、海上自衛隊鹿屋基地の隣にある鹿屋基地史料館には、鹿屋や串良から出撃した海軍特別攻撃隊の史料が数多く展示されています。
また、そのすぐ近くに、特攻作戦を唯一行わなかった美濃部正少佐率いる芙蓉部隊のコーナーもあります。
ぜひ、見学されてくださいますように。