瞑想する人は仁者たれ?慈悲深くあれ?愛他性(利他性)や慈悲の瞑想(トンレン)の実践
自分でも戸惑うばかりです。今回は愛他性(利他性、親切心)に関してです。
前回「インスピレーションに導かれ」というヘンな話をしましたが、それは今回さらにヘンな話をするための準備みたいなものです。説得力が増すわけでは全然ないのですが。笑
自分にとって根拠をもって論じたり文章にしたりが、とても難しいテーマなので、主観的な意見がダラダラと続く記事になってしましました。仕方がない。。。ゴメンナサイ。
愛他性(利他性)、、、ホントは話題にしたくないんだけど
ズバリ言ってしまうと、瞑想実践においても「愛他性」が重要なのかもしれませんということです。
まぁ私の思いつきの戯れ言です。
なぜこの話題をnoteにするかというと、愛他性の重要さに関して「インスピレーション」があり、衝動が生じたからです。
でも今回の話題は、かなり抵抗を感じてます。
まず私自身が愛他性の強い人間ではないです。結構、自己中で利己凡俗もいいとろです。他人様に倫理・道徳を説くことができるような高徳な人間では決してないです。
さらに瞑想の実践においても愛他性が重要であるとする根拠を、私は全く提示できません。
愛他性が重要であるとするインスピレーションによるものなのですが、なぜこういったヒラメキがあったのか、自分でもよく分かりません。
なのでnoteにはしたくなく戸惑うばかりなのですが、「noteにすべし!」とする衝動が否定してもなくならず、仕方なく、、、。
内なる意識と愛他性
数々の宗教では「愛」「慈悲」「利他心」などが説かれています。
ただここでの話題においては、宗教で説かれているから重要だというものとは違います。
世間一般の倫理、道徳、良識においても美徳とされているからというものともチョット違います。 まぁ実際に素晴らしい徳なのでしょうけど。
この「瞑想する人」noteの瞑想の実践において重要だとしているのです。宗教ドグマや他の瞑想の伝統・流派のことは私の知ったことではないです。
そしてこのnoteにおける瞑想は「内なる意識に関する実践」としているので、愛他性は内なる意識との関係性において重要なのではということです。
内なる意識とのより良い接触、交流、もしくは同調には愛他性に取り組む必要があるのではないかということです。
ひょっとすると内なる意識にはトランスパーソナルな性質があり、愛他との親和性があるのかもしれません。
愛他的な人は深い瞑想体験に向いている?
愛他的な感情・行動や「慈悲の瞑想」が、脳の機能的・構造的変化をもたらすという見解があります。
常日頃から愛他的な感情・行動をしていて、そういった性質の強い人は、脳の構造的・機能的にも、深い瞑想体験に向いているのかもしれません。
『聖なる刻印---脳を変えるスピリチュアル体験』(バーバラ・ブラドリー・ハガティ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社)に興味深い記述があります。
巷では、「愛情ホルモン」と言われることもある「オキシトシン」ですが、愛他的な感情、行動でも分泌されるとされます。
そしてこのオキシトシンが “「大洋的感覚」やときには神秘的な感覚をもたらすことを示唆する研究 ”があるようなのです(『聖なる刻印---脳を変えるスピリチュアル体験』p.100)。
大洋的感覚というのは、宗教的体験などで没我的な、宇宙との一体感的な体験、感覚などと説明されるようなものです。
カナダ、モントリオール大学の神経科学者である「マリオ・ボーレガール」による修道女に対する研究が紹介されています。
この修道女たちは祈りと瞑想を中心とする生活を送っていて、脳スキャナーによる検査で、神秘的な一体感を経験している時の興味深い脳画像が撮影できたそうです。
またこれらの研究を通して脳の尾状核に関しても知見が得られたそうです。
上述のことを総合的に見ると、深い瞑想体験や宗教的体験では、しばしば愛他性に関係する脳部位の活性化が見られる場合もあると示唆されています。
逆を言うと、ひょっとすると、愛他性が強い人の方が、深い瞑想体験に親和性があると言えるかもしれません。
この「瞑想する人」noteでは瞑想を内なる意識に関連する実践としており、深い瞑想体験は内なる意識に関係すると考えています。
愛他性は内なる意識の体験に関係があるのかもしれません。
愛他性と瞑想。慈悲の瞑想(トンレン)の活性・高揚感
私自身の瞑想の習慣と、心身の状態の変化、観察を通して見ると、まぁなんとなく、愛他性は瞑想や瞑想による効果にもポジティブな影響があるのかもしれないなぁ、、とは思うところがあります。
あくまで個人的な瞑想体験による直感なのですが、(無私の)利他心(愛他性)と瞑想は非常に相性が良いのでは、と感じることがあります。
言語化して説明するのが非常に難しいのですが、それなりに安定した心地よい瞑想の時と、利他を実践している時とでは、意識-脳・神経生理の状態・活動に類似したものがあるのでは、という直感があります。
不安、心配、後悔、怒り、憎しみ、嫉妬、欲情、激情は安定した瞑想を得るのに障害になると感じています。
しかし利他心の場合には瞑想の障害になるどころか、むしろ瞑想の集中状態にとって良いのではと感じることがあります。
利他的な感情が瞑想の集中に役立つということは、「慈悲の瞑想」の実践者にしばしば感じられることなのではないでしょうか?
私はチベット仏教式の慈悲の瞑想であるトンレンに沿ったものを実践することがたまにあります。
このトンレンをやると、日課としている基本的な瞑想の時とは違った、活性と集中、高揚感を感じることがあります。
瞑想においても愛他性は、何かしらの脳・神経生理の状態を活性化させるのではという主観・感覚があります。
ひょっとしたらヒトの生物学的基盤として、意識-脳・神経生理のメカニズムにおいて、瞑想と利他心には何か興味深い特徴、関係性があるのかもしれません。
愛他性(利他、親切)は健康にも良いし、エピジェネティクスにも関わる?
愛他的な感情や実践が、脳・神経生理システムや遺伝子の発現(エピジェネティクス)、染色体のテロメアなどといった人間としての生物学的基盤といえるようなものにまで影響するという知見はあるようです。
他人に親切な行動が、エピジェネティクス的な影響を与え、炎症反応に関する遺伝子の発現を抑えるということなどが言われています。
さらに「セロトニン」や「ドーパミン」「オキシトシン」などの分泌を促し、心身の健康やアンチエイジングに役立つという意見もあるようです。
総じて、愛他性は心身にポジティブなものであるようです。
※参考サイト記事
また興味深いのですが、参考にした「ポジティブ心理学:ビジネスに活かす基本の整理と最新動向_1 」の記事の中では、幸せ(歓び)をヘドニア(快楽追究型。感覚的・短期的な快楽)とユーダイモニア(生きがい追求型。意義ある目標に向けて努力するときの喜び)にわけています。
後者のユーダイモニアの方が、心身に好ましいエピジェネティックな変化が見られたそうです。
このことは瞑想にも関係するのではないでしょうか。
瞑想中に独特な快適さ、心地良さを感じますが、これはユーダイモニアと類縁のものか、親和性のあるものであるという感覚が私にはあります。
さらにこのことは子どもの教育や、小さい頃からの瞑想の実践にも関わるのではないでしょうか?
子どもに頃からユーダイモニアのような喜びを尊重することを心がけ、そういったことにも瞑想が好影響を与えるということです。
そしてこれは人生を歩むうえで重要なレジリエンスにも関わるでしょう。
※エピジェネティクスもけっこう興味深い話題です。興味深い記事を見つけました。
「線虫」を用いた研究で “腸組織のエピジェネティック変化が生殖腺のエピジェネティック変化を誘導することで、酸化ストレスに耐性を持つという生存優位性が次世代へと継承されること” が明らかにされたそうです。
この研究では、エピジェネティックな変化が孫世代にまで確認されたそうです。
人間の場合はまだよく分かっていないのですが、エピジェネティックな変化の影響は数世代に至るまで確認されるとする見解があります。
「諸悪莫作 衆善奉行」 悪を避け、善を行え
「七仏通誡偈」というものがあります。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
「悪を避け、善を行い、自らのこころを浄めよ。これこそがホトケの教えだ」ということです。
「瞑想する人」noteにおける、内なる意識に関する実践としての瞑想においても、このこれに取り組んだ方が良いと感じています。
悪とは何か、善とは何かですが、このnoteにおいては、悪とは「他人を傷害しようとする感情、行為」で、善とは「愛他的な感情、行為」とします。
他人を傷害しようとする心は、抱くだけでも心身に対して、エピジェネティックなものも含めて、悪い影響があり、瞑想の質にも悪影響があるのではないかと感じています。
愛他性は瞑想の質を良いものにする可能性があると、「慈悲の瞑想」は示唆しているように感じます。
反対に、他者への害意によって心が支配されがちな傾向は、瞑想の実践にとってもネガティブなものなのではないかと感じています。
しかしここでの私の主張は、博愛の人になれとか、都合の良い人、騙されやすい人になるべきだと言うのとは違います。
出家して世俗から離れて修行する「パトロンのいる旅するニート」みたいな人達とは違って、世俗を生きる場合には愛他性ばかりでは難しいことも多いです。
また虐待を受けた人や犯罪被害者やその近親者などが抱く、憎しみ、怒り、復讐心、処罰感情といったようなものは、私は人間として、自然で正当なものであると考えています。
「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことができる精神的境地があるのかもしれませんが、なかなかそうはいきません。
私が主張したいのは、いろいろと嫌なこと嫌いな人がいるのは仕方ないですが、とにかく他者への害意が自分の心の中で優勢になるのを避け、愛他性を優勢にしたほうが良いのではということです。
憎しみを抱く嫌いな人がいるのなら、その人を無理に愛そう、赦そうとかすべきというのを ここで主張しているのではなくて、とりあえずはその人のことは考えずに、他の関係で愛他的であった方が良いのではということです。
とにかく、こういったことに関しては、実践によって体感的な理解が得られるのではと考えています。現時点では私はこれ以上に論じるのが難しいです。
こういったテーマに関心のある人は実践するならば、何らかの理解が得られるだろうとは思います。
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とにかくいろいろなことが総合して、瞑想においても愛他性、悪を避け、善を行うことが重要だと感じるのです。ゴメンナサイ、説得力が無くて。
愛他性セラピー?
愛他的な感情、行動が脳・神経生理システムやエピジェネティクスといった人間の生物学的基盤にまで好影響を与え、心身に良いものであるのなら、これは「セラピー」としても用いることができるのではないかとも思います。
愛他性セラピーです。ジョークではないです。医学的な真剣な研究にも耐えうるものなのではないでしょうか?
医師が「慈悲の瞑想」や「他人を害する心を抱くのを避け、愛他的でありなさい」みたいなアドバイスを「処方」をするのもありえるのかもしれません。笑
特にストレスなどから生じる不眠、頭痛、胃腸の不調などには、試してみる価値があるのではないかと感じています。
その場合には愛他性の実践だけでなく、健康的な食事や適度な運動、瞑想、それに一定期間の森林浴セラピーも組み合わせると、かなり効果があるかもしれません。
医学的な研究が待たれます!笑
さいごに。瞑想の向社会性
瞑想は宗教的な伝統との関わりが深く、しばしば出家した「パトロンのいる(旅する)ニート」みたいな人達によって、世俗を超越した目標を遂げるために実践されてきました。
瞑想の向社会的(プロソーシャル)な要素は一体なんなのか?と疑問に思うことが私にはあります。
「個々人の心身の健康やパフォーマンスの向上に良い」のだから結局は「社会にとっても良い」という意見は分かるのですが、説得力が不足しているような感じがしてました。
ただホントに瞑想と愛他性には親和性があるのなら、それこそが瞑想の向社会的な要素に関係するのではと感じます。
さらに心身の健康に良いだけでなくて、創造性にも関わるのなら、まさに文明、社会にとって良いものだといえるのではないでしょうか。