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【ヤブユム】智慧と慈悲、その結合の歓喜。 ヨガ、瞑想、密教、生命エネルギー、バクティ

“ 荒野に 主の道を備え、
砂漠に われらの神のために大路をまっすぐにせよ ”  イザヤ書40:3

イエスは言われた。
「あなた方が、この山でも、エルサレムでもないところで、父なる神を礼拝する時が来る。
まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。
神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」”  ヨハネ福音書4:21-24


 つまるところ「智慧と慈悲の結合とその歓喜」が金剛大乗(金剛荘厳)の実践の要諦、真髄、理想だと思われます。
顕教、密教、生起次第、究竟次第の区別など関係なく、これが要諦。

ヤブユム(歓喜尊):秘密集会 文殊金剛(グヒヤサマージャ・マンジュヴァジュラ)

引用元:チベット仏教普及協会(ポタラ・カレッジ)、2017年春の密教伝授


BGM




【慈悲の実践】智慧と慈悲とその結合の歓喜の実践

 「智慧と慈悲の結合とその歓喜」の実践とは、エゴのない慈悲、愛、、、の実践とその歓喜ということです。

 大乗仏教の菩薩行であれ、キリスト教やイスラム教などの「私の意志ではなく、神よ、あなたの御心が行われますように」の実践であれ、ヨガのバクティの実践であれ、
それらがエゴの無い(エゴ無くというのを心がけるような)ものであり、その実践に歓喜があるのなら、それは「智慧と慈悲の結合とその歓喜」というわけです。


・智慧とはエゴではないもので慈悲を成立させるもの

 この瞑想する人noteでは、とりあえずは智慧とは慈悲を成立させるもの」「慈悲とは智慧が適応されるもの」と述べたことがありますが、まだまだ思索が足りてません。

とくに智慧に関しては、多くは語ることはできないです。
思索が足らず、よく分からないからです。

智慧の性質の一つは、エゴの無い(エゴでは無い)というようなものだろうとは思われます。

またエゴの無い慈悲、菩提心の実践に向かわせるもので、かつその実践の歓喜を生起する人間の内にある意識ー神経生理のメカニズムという性質もあると思われます。

実践を通して把捉されるものなのでしょう。

慈悲を成立させるものであり、エゴではないものということで、実践的な態度としては必要ならとりあえず便宜的に、智慧に神、神性、ワンネス、ブラフマン、四無量心、菩提心、、、というものを各人の信仰に応じて当てはめても良いのかもしれません。


 人間の内には智慧とするような意識、精神性、認知の働きのようなものがあるのだろうとは考えています。
これは進化生物学的な基盤があるものだろうとも考えています。

関連note


ヤブユム(歓喜尊)―― 智慧と慈悲の結合の歓喜を象徴する

 ヤブユム(歓喜仏)は「智慧と慈悲の結合とその歓喜」の象徴とします。

ヤブユム(歓喜仏):ヴァジュラバイラヴァ

これは図柄的には「男女尊交合歓喜仏」、つまり性的ヨーガそのまんまです。
しかしこの瞑想する人noteでは性的ヨーガを意味するものでは全くなくて、「智慧と慈悲の結合とその歓喜」の象徴とします。

ヤブユムのイメージを「性的ヨーガをすすめるものである」などとする解釈は完全に間違っているとします。

でも、まぁ、現代文明的に他にも適切なイメージがあるのかもしれないですが。


・ヤブユムはなぜこのようなイメージ?―― 密教的な体験によるものだろう

 ヤブユムの図柄にはなぜ性的な要素が用いられているのでしょうか?

学者的な解説だと以下のような説をよく目にするでしょう。

・当時の民間信仰、習俗、ヒンドゥー教にあるイメージが取り入れられた

・性、生殖によって連想される創造性、豊穣性、生命力、新しい生命を生み出す力への信仰、畏敬の念に触発され取り入れられた

私の意見としては以下のものです。

・ヤブユムのイメージの形成に関わった人たちの中には修行者がいた。

・瞑想、ヨガの実践によって密教的な体験、生命エネルギーの体験があった。

・その体験には性を連想させるものが神経生理的にも、情動的にも認められた(参考「ムドラーの体験」)

・瞑想、ヨガによる性を連想させるような体験をもとに、当時の人たちの信仰的背景と理解力、表現力に応じて成立したのがヤブユムのイメージである


・イメージの適切な点

 たしかに現代では他のもっと適切だと思われるイメージを採用するようにしたほうがいいのかもしれませんが、
ヤブユムは以下の点では、密教的な体験や理解をありありと表すものであり、適切な点もあります。

・シャクティを表すことができる。
このシャクティ、生命エネルギーの体験には、神経生理的、情動的に性と関係があると考えられる。
とくに初期的な体験ではそのように感じられる。

・とくに密教的な生命エネルギーの実践による意識、精神・情動、神経生理の体験は決して信仰的な観念ではなくて、性によるものと同じように肉体を持った人間にあって強く生々しくリアルなものであることを表すことができる。

・「聖」なるホトケの交合(「俗」)というイメージによって、「俗」なる情動、生命欲動の昇華と、その昇華による「聖」なる歓喜を表すことができる。
ちなみに性の昇華というよりかは、本質的には、生命欲動の昇華としたほうが正しいのではないだろうか?


【貪・瞋・痴の三毒】密教は欲望を肯定するのか? ―― 上座部と比べて生命欲動の肯定か?

 以下は全て私の無理解による完全なる思い違い、間違いかもしれません。

(勝義・仏教の真理にあっては全ては空で清浄であり)
「(大乗仏教のうちでとくに生命エネルギーの実践、無上ヨーガタントラ・究竟次第の思想)密教は、欲望を肯定する」と言われることがあります。

これは正しい主張なのでしょうか?

たしかにそのように受けても良いような雰囲気はあるでしょう。


しかし、本質的にはもっと慎重に受け止められるべきものだと私は考えています。
そのままストレートに欲望を(積極的に)肯定するとしてしまうと、外道(道から外れているという文字通りの意味) に陥ることもあると考えています。


 これは「禁欲的な実践と比べると、とくに密教実践体系の神経生理的な面では、生命欲動を肯定もしくは活用する面はある」というように落ち着いて理解すべきものだと考えています。


・欲望の肯定 ―― スピリチュアルの外道

 たとえば「性の肯定」のスピリチュアルな実践ということで、西洋スピリチュアル・ニューエイジにしばしば見られる「性タントラ」は、ほぼインチキの外道だと考えています。

この魑魅魍魎の安っぽいスピリチュアルのアホな外道は、東洋の宗教思想・実践に対する欧米人の浅薄な理解や好奇心、キリスト教的倫理の抑圧、ニューエイジ思想運動がごちゃまぜになった卑しいアホな外道だと考えています。

「霊性の探究では、性欲だろうが食欲だろうが、一般的な良識や規範などはかなぐり捨てて、積極的に欲望を肯定し利用すべきだ」というのは、明らかに霊性探究の体系を汚染するものだと考えます。


・上座部と比べて

 このとくに「密教の実践」は、欲望を肯定するというのは、

密教は、
上座部仏教の思想・修行実践と比べると、生命欲動が肯定されている
上座部とは違った観点で生命欲動に着目されている

、とした方が分かりやすいのではないかと私は考えています。


 これは私の上座部の修行に対する無理解による間違いかもしれませんが、、
上座部の修行では、瞑想によって五蘊、色・受・想・行・識は、無常であり無我であり皆苦であると如実に見て、厭離が生じ、欲望とくに貪・瞋・痴の三毒を断つとされます。


画像引用🔗

「貪・瞋・痴の三毒」は生命欲動を表すと考えています。

密教の生命エネルギーの実践では、この三毒で表される無明の欲望、人間の生物学的基盤にも根ざすであろう情動、生命欲動を、神経生理的にも活用するという面があると考えています。

生命欲動がそのまま肉体的・物質的な欲望として結果し消耗されるのではなくて、その生命欲動の「活動力」、人間の意識ー神経生理への影響力が活用されているということです。


つまり、「欲望を肯定する」というのが真意ではなくて、、
密教という「特殊な神経生理的な実践」のある体系では、生命欲動が肯定、活用されているということを表現しているものだと考えています。

「密教は欲望を肯定する」というのは、当時の人たちの理解力、表現力に応じた、その伝統内での表現だと考えています。


【功徳】慈悲の実践による生命エネルギーの蓄積?

 仏教やヨガの生命エネルギー系の実践では、生命エネルギーの源は「」であり、慈悲、善行、布施の実践によって徳が(神秘的な方法で)蓄積され、それが生命エネルギーの実践で用いられるという思想があるようです。

これは界隈では一般的な思想なのか、それとも、一部の流派によるものかは詳しく知りません。

 内丹(仙道)の界隈では私は聞いたことはありませんが、しかし、人間性・精神性が「気の性質や働き」に関係するという意見はしばしば聞きました。


 「善行によって功徳が蓄積され、生命エネルギーとして利用される」という神秘的なことがあるのかもしれません。
現代の物理科学で把捉されないような、神秘的な、意識性をもった存在や領域、法則が実在するのならば。

関連note:【霊的な存在!?】「意識存在」、憑依系の魔境? ――― アヤワスカ、サイケデリクス、瞑想、ヨガ、エドガー・ケイシー


・生物学的・神経生理的な解釈

 「善行によって功徳が神秘的に蓄積される」という主張は、生命エネルギーの実践者達によってなされています。
それには体験的な理解もあると思われるため、適切に評価されるべきと感じられます。

屁理屈に聞こえるでしょうが、この「功徳の蓄積」という考えに関して、ある程度は生物学的・神経生理的な思索を示唆することはできるでしょう。

それは「神経生理エピジェネティクスの可塑性」です。



エピジェネティクスとは?

 大雑把に説明すると、ようは遺伝子の発現に関することです。

人間や他の生物は遺伝子のプログラム(DNAの塩基配列)によっていろいろと決められています。

基本的なことはいろいろと決められているのですが、しかし、その遺伝子の発現・表現については、環境や生活習慣、能動的介入によって変化しえる領域があるということが「エピジェネティクス」として捉えられ研究されています。

エピジェネティックな変化が、子の世代、孫の世代といった、後世代にまで受け継がれるという研究もあります。
(塩基配列の変化によるものではないため、エピジェネティックな影響の範囲は数世代以内までという研究があるようです)

参考

エピジェネティクスと代謝性疾患
https://www.jstage.jst.go.jp/article/medchem/21/4/21_31/_pdf



 たとえば、近年では巷でも周知されつつありますが、食べ物や運動などによって腸内フローラ(腸内細菌叢)は変化します。
変化した腸内フローラが今度は食嗜好ばかりか、健康、精神状態に影響するとされます。

関連note:【痩せ菌!?】腸活ダイエット。短鎖脂肪酸、腸内細菌叢を重視。瞑想やヨガにも良い健康的な食事法


 これと同じように人間の意思、興味・意欲、身体的・精神的活動、、、、が、その人間自身の神経生理、エピジェネティクスに影響し、その変化が今度は、身体の健康面ばかりではなくて、人間性・精神性にまで及ぶことがあると考えられます。

このような神経生理的な、エピジェネティックな変化は、密教的な生命エネルギーの体験にも関わると考えられます。

なぜなら、生命エネルギーの体験は、たとえ神秘的なものであろうとも、人間の物質的な人体によって体験されるものであって、
そうであるならば神経生理的な側面、生物学的な基盤があるはずだからです。


 つまりここで主張したいことは、「智慧と慈悲の結合とその歓喜」の実践は精神論や信仰の観念、道徳論におさまるものばかりではなくて、
人体の神経生理にも蓄積的影響があるものであり、これは「功徳の蓄積」と表現しても良いものではないかということです。

 神秘的な「功徳の蓄積」というのを否定するのではなくて、
人体の神経生理の側面から見ると、こういう解釈も成り立つのではないかということです。

「智慧と慈悲の結合とその歓喜」の実践によって、人間の意識ー神経生理は、生命エネルギーの実践へと励起されるということです。


関連note:道次第の考察 ―― 顕教と密教、生命エネルギー、生起次第、究竟次第


スピリチュアルな実践としての理想の提案

“ イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい。
自分の命を救おうとするものはそれを失い、私のために自分の命をうしなう者は、それを見いだすであろう」 ”  マタイ福音書 16:24-25

 さてスピリチュアルな提案があります。

 まずは密教的な、生命エネルギーの実践は霊性(智慧・慈悲。もしくは各個人の信仰にしたがって、神性でもワンネスでも神、ブラフマン、大乗の菩薩、、、でも)のためにあると捉えるべきということです。

そして、多くのスピリチュアルな精神的伝統の奥義で言われているように、霊性(大いなるもの)の前に、エゴを虚しくし、自らを捧げるというやり方が理想なのではないかということです。

まぁ、これについては、さらなる思索が必要ですが。


・バクティ

 智慧と慈悲の結合の歓喜、エゴを虚しくし霊性の前に自らを捧げるという歓喜、これがバクティの実践にとっても重要だと思われます。

 このバクティの実践は生命欲動に関するものでもあると思います。

 生命欲動は密教的な生命エネルギーの体験に関係していると考えています。
この生命欲動は、人間の生物学的な基盤に根ざすもので、歓喜を求める精神・情動ー神経生理の活動であるということに着目すべきです。


 バクティの実践は、生命欲動を霊性の歓喜へと方向付けるものであるべきだと思います。
智慧と慈悲の結合の歓喜、エゴを虚しくし霊性に自らを捧げるという歓喜に向けてです。

欲すること(低位チャクラ)、願うこと(ハートチャクラ)、意志し行動することにおいて霊性の歓喜に向かい、エゴを虚しくし、自らを捧げるというのが、バクティの実践なのだと思われます。