霊性と密教(生命エネルギーの実践)についての説明。ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、精神性、智慧
BGM:バッハ Cantata BWV 147 「Herz und Mund und Tat und Leben」
前回に続き、またまたスピリチュアルにかぶれた気まぐれの思いつきの文章です。
前回note:
密教、生命エネルギーの実践に関するヤマ・ニヤマ、精神性について
生命エネルギーの実践について、体系的な説明を願っている。
これは、今現在、このような特殊な実践を探究している者たちだけではなくて、後世に続く実践者達にも必要なものだろう。
また類似する実践にたずさわる者にも役立つはずである。
この教導においては、「肉欲など低位チャクラの働きに相当する情動は制御されなければならない」「ムドラーは無理のない強度で行い、徐々にクンバカの時間を長くすべきである」などといった説明に終始すべきではない。
なぜならその説明には、重大なものが欠けているからだ。
それは霊性である。
「智慧」であり霊的な理解である。
世には神聖なものや俗っぽいもの、神秘や好奇心を駆り立てるものなど様々な説明があふれているが、本質的には、この生命エネルギーの実践は高い精神性によって導かれ指示されなければならない。
いったいどのような目的、願いとともにツンモの火(チャンダーリーの火、ヨーガの火)は燃え上がるのか。
意識と神経生理の両面にわたるこのような活動力は、いかなる方向に向かい、チャクラやグランティを貫き上昇すべきなのか。
低位チャクラの意味する情動は生物学的な欲求である。
ではこれをいったいどのように制御すべきなのか。
そもそもこのような生物学的な本能的な欲望を制御できるものなのだろうか。
智慧が、霊的な理解こそが、本能、生物学的な基盤に根ざす欲望から、人間の精神を自由にする。
では智慧とは何だろうか?
いったいどこにあるのだろうか?
どのようにしてそれを得るのであろうか?
寺院に隠された神聖な古文書の中に書いてあるのだろうか?
神々に必死に祈ることによって啓示が与えられるものなのだろうか?
それともラマやグルやスワミが、「智慧とはこれこれのことである」「あれやこれは智慧ではない」などと細かく教示するものなのだろうか?
智慧とは、霊的な理解とは、外に探し求めるものではない。
人間の意識ー神経生理の内に生得的にあるものなのだ。
「最も偉大なる者とはエゴ無く奉仕する者のことだ」「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりに為したことは、すなわち、わたしに為したことなのである」 ――このような愛、慈悲を実践し体験し、実践と体験を通して理解するにしたがって、智慧を、霊的な理解を、自らの内に見るようになる。内なる神を見るようになる。
智慧、霊的な理解や意識が、しばしば精神的な伝統において「金剛のように堅固で光輝く」と表現されてきたのは、人間の内に生得的にあるものであり、人間性や人生に甚深な影響があるものだからだ。
人間らしい健康で文化的な活動の、その度を超えたようなエゴの欲求や肉欲、感覚的な享楽がある。
一方で、霊性、智慧、霊的な理解、光明も人間の内にはある。
『見よ わたしはきょう、生命と幸い、死と災いをあなたの前に置く』
もしあなたが霊性の道を歩むのなら、
生命を ―― 智慧を、光明を選べ
※参考:「生命と幸い、死と災い」申命記30:15~
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