愛(慈悲、四無量心、利他・愛他)の実践。イエス・キリストの物語
この瞑想する人noteではエゴの無い慈悲、四無量心、利他・愛他――語弊があるかもしれませんが、このnote記事では一言で「愛」と表現します――の実践を顕教としています。
関連note:【大印契】顕教について
この愛というのは、なかなか深遠なテーマではありますが、客観的なものというよりかは、主観的なものであり、つかみどころのないものでもあります。
なので愛の実践などと言われても、ふわふわしていて具体的にはどーしたらいいんだ?と混乱してしまいます。
今回はこれについての思索の一旦の整理です。
ちなみに、もう何回も述べてますが、私自身は卑しい人間でして他人様に愛とか慈悲とか説くことができる人間では決してありません。口が虚しくなりそうです。
私自身も探求している身というわけであります。
この瞑想する人noteでの「愛」の実践(顕教)
現時点ではこの愛の実践(顕教)は霊性の探求に役立つのではないかなぁと思索しています。
この瞑想する人noteで、愛の実践を顕教としている理由ですが、これはいろんな宗教や聖典や教祖や信者が重視しているからというわけではありません。
また多くの人がとりあえずは支持しやすい徳目であるから、というわけでもありません。
このnoteにおける理由があります。
このnoteでは「内なる意識」「霊性(スピリチュアリティ)」の探求というのを掲げています。
そして愛の実践(顕教)はこの霊性の探求に役立つのではないかと思うからです。
そうは言っても、まだまだ内なる意識、霊性といったものの定義が不十分なわけですが。
関連note:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性
愛と瞑想と生命エネルギー
愛の実践によって顕教に精進するならば、少なくとも次の2つの効果はあるのではないかと思索しています。
まずは、瞑想の安定に役立つ可能性があるのではないでしょうか。
瞑想時の精神の安定に役立ち、意識体験を良質なものにする効果があるかもしれません。
そして次は密教的な、生命エネルギーの実践の観点からのの効果です。
このような実践にとっても良いかもしれません。
ここで言う生命エネルギーの実践とは内丹(仙道)やクンダリニー系ハタ・ヨーガなどを含む実践のことです。
関連note:【ヨガの分類②】クンダリーニ系ハタ・ヨーガ。瞑想やムドラーを重視する密教のヨーガ
エゴの無い愛の実践というのは、この生命エネルギーの実践にずばり役立つのではないでしょうか。
細かいことを言うと、生命エネルギーが上昇しやすくなったり、低位のチャクラの影響力が弱まったりなど、生命エネルギーの体験に良質の影響があるのではないでしょうか?
これは客観的に証明するのが難しいわけです。
しかし生命エネルギーの技法の実践者の中には、体感的にも、同じようなことを考える人が多いのではないでしょうか。
ちなみに伝統においては善行や功徳が重視されています。
チベット密教(後期密教、無上ヨーガタントラ)やクンダリーニなどを扱う一部のインド・ヨガでもそうです。
例えば戒律を守り、功徳を積むことが必要と説明されます。
「功徳の集積」が必要といった説明もあります。
ではそもそも愛の実践とはいったい何なのか?
「他者の喜びや幸せを願ってエゴ無く与える」というのが愛の実践ではないかと思索しています。
仏教的な表現だと布施です。
愛や慈悲といったのは、科学的な方法で観察し計測するといったことに馴染まないものです。
主観的な要素、感情的、精神的な要素が強いものとされます。
なかなか客観的な定義が難しいです。
いろんな宗教家や哲学者、思想家、詩人、、、などが愛についてあーだこーだ、あーでもないこーでもないと言っているわけです。
私自身はそういった高尚な思想を理解できる立派な脳ミソとハートを持ってはいないので、そういった人たちがなんと言っているのかは他を当たってください。
私としては原理的なものは何なのか?というのに興味を持ちました。
原理さえ大まかにつかむことができれば、後はTPOに応じて実践、適用してさらに思索し続ければいいし、必要なら適宜修正すればよいです。
では、どういった時に人は愛を感じるでしょうか、もっと言うと、どういった時に(愛というのを感じるために)この愛という言葉を用いるでしょうか?
もっともわかりやすく、そしてこの情操・感情がむき出しになっているのは「恋愛」であり「親子の愛、特に親の子への愛」なのではないでしょうか?
ではこの「恋愛」「親の子への愛」といった関係性で、共通するもの、原理的なものはあるのでしょうか?
(いろんな人がいて、いろんな関係があって例外はあるのかもしれませんが、)「一体性」という性質が感じられ、態度や作為・行動に関することでは「相手の幸せ・喜びを願って与える」というのが共通する原理的なものなのではないでしょうか?
まぁ、いろんな意見があるとは思います。
とりあえずは今のところは、以上いろいろな思索を踏まえて、愛の実践(顕教の実践)については、他者の喜びや幸せを願ってエゴ無く与えるというのが精神的な原理なんじゃないかなぁと思うようになりました。
こういった精神的な態度や体験、意欲、実践、そして実践による心の充実感や喜びといったものが、上述したように瞑想や生命エネルギーの実践に役立つのではないかと思索しています。
人体にはそういう生物学的な、脳・神経生理的なメカニズムがあるのかもしれません。
あっ、もちろんエゴ無く与えるということで、何か宗教的・福祉的に大げさなことや、自身を疲弊させ、すり減らすような極端で病的な自己犠牲や、完全無料のボランティア活動をイメージする人もいるかもしれませんが、ここではそういったことに触れているわけではありません。
他者の喜びや幸せを願ってエゴ無く与えるという精神的態度と実際的な実践が、霊性の探求、瞑想、生命エネルギーの実践に役だつのではないかと述べています。
実際の実践では個々人のTPOに応じて些細なことでもいいと思われます。
例えば仏教では、笑顔や和やかな表情で他者に接するのも「和顔施」といって布施の実践とされます。
他には眼施、愛語施、無畏施(むいせ)といったものも布施として数えられています。
参考:布施 (Wikipedia)
「与えると幸せ」 脳スキャンで仕組み明らかに 研究(AFP BB)
【余談】イエス・キリストの物語
過去にも少し触れたことがありますが、キリスト教の『聖書』とそのメインキャラクターの『イエス・キリスト』についての与太話。
関連note:いつかリトリートで瞑想してみたい。イエス・キリストの『荒野の誘惑』はリトリート?
私は聖書は神話、昔話、創作宗教文学だと思ってます。
しかし、特に聖書に記述されているイエスの言行については、当時存在したかもしれない何らかの「霊的修養団体」の思想が反映したのかもなぁなんていうロマンチックな妄想をしたりしてます。
キリスト教の「イエスの磔刑による贖罪」というのは、日本人には全くもってなじみのない発想なわけです。
これは、ユダヤ教的な「(動物の犠牲であれ)血が流されることによって罪は償われる」という思想の反映だとする見解もあります。
旧約聖書にはこれに関する記述があって、少なくとも現代日本人の多くは「残酷で血なまぐさい」と感じるのではないでしょうか。
新約聖書やキリスト教教義によると、「神は、そのひとり子をお与えになったほど、世を愛された」(ヨハネ福音書3:16)で、イエスの磔刑は贖罪であり、人々の罪のために犠牲になったということで、これを信じるものは救われるというのが、キリスト教の信仰なわけです。
そしてそのイエスには、
、といったような言葉が多くあるわけです。
ひょっとするとですが、当時存在したかもしれない「霊的修養団体」では愛、慈悲、エゴ無く与えるという愛というのが尊重されていたのかもしれません。
イエスの物語には、この団体のそういった思想が反映したのかもしれません。
「イエスの磔刑による贖罪」という聖書の記述は、エゴ無く与える愛というもののユダヤ教伝統の文脈に沿った宗教的な、極端な表現なのかもしれません。
ロマンチックな妄想に過ぎませんが、、さて、真実は、、、、。
まぁ、とにかく、エゴ無く与える愛の実践は「イエスの戒め」「キリストの道」でもあるかもしれないということで。
イエスも瞑想する人noteの本尊にしようかなぁ。
関連note:グルヨーガの瞑想(本尊ヨーガ、発菩提心の瞑想) 【密教ヨガ的瞑想】