道次第の考察 ―― 顕教と密教、生命エネルギー、生起次第、究竟次第
金剛大乗(金剛荘厳)の実践(道次第)についての考察。
マガジン:金剛大乗
顕教の実践を通しての内的な理解の把捉――功徳
顕教(の実践)とは、慈悲、非利己的なエゴのない愛を実践することとしている。
この慈悲の実践自体は、個人的にも社会的にも評価されるものであり、大乗の精神に沿ったものである。
この顕教の目標の一つとしては、とくに顕教と密教の両方を重視する視点から密教との関係で思索すると、それは「内的な理解」、歓喜、生命欲動を見いだすことであると考えることもできる。
慈悲とは何か?非利己的なエゴのない愛とは何か?霊的な理解とは、真理とは…….?などと書物を読んだり、ネットで検索したり、グルやラマに教授されるなどして知識として知ることではない。
自らが慈悲である、非利己的な愛であると思うことを適用し実践することによって、自らの意識の内に理解を、慈悲、愛を見いだすということである。
大乗仏教であるチベット仏教の金剛乗、無上ヨーガタントラ、究竟次第の伝統でも、帰依、菩提心、積善による功徳の重要性が説かれている。
この仏教の用語を借用するのなら、この金剛大乗における顕教の実践による「内的な理解」は「功徳」と表現できるものかもしれない。
・「外的な知識やドグマ」と「内的な理解」
いったい何が、どのような信仰や教義や思想が、その人を菩薩道、慈悲、非利己的な愛の実践に駆り立てるのかについては重要視しない。
ある人の場合には、キリスト教的信仰であり聖書の教えかも知れない。
ある人は、上座部仏教などで重視される「慈経」の教えかもしれない。
また、チベット仏教で重視される「入菩薩行論」や「心の訓練」に感化される人もいるだろう。
イスラム教やシク教やヴェーダーンタ、ウパニシャッド、バクティ・ヨガの教えであることもあるだろうし、エドガー・ケイシーやシルバーバーチなどスピリチュアル思想や臨死体験者の記録のことだってあるだろう。
もちろん、これらの宗教の究極的な目標には違いがある。
神の救い、空性の把握、輪廻転生からの解脱…..。
しかしこの瞑想する人noteではそれら宗教の超越的信仰に関するドグマは重視しない。
これらの教え、教義、聖典に書かれているものは「外的な知識」であり、記憶知や記録にすぎないものもある。
霊性の探究に必要なのは「内的な理解」である。
内的な理解は実践によって、菩提心、慈悲、非利己的な愛であると自分が考えることを適用し実践することによって、自らの内に見いだすものだ。
生起次第
金剛大乗は霊性の探究であって、その霊性は実践によって、自らの内に見いだすものだ。
その霊性の探究においては、どのような態度があるべきなのか?
我々が仕えるべき精神的・霊性的な理想、もしくは「神」はどのようなものであり、どこにあり、どのように礼拝し奉仕し自らを捧げればよいのか?
いったいどの神が、我々の「神」なのか?
「神」は、聖書の神なのか?アラーなのか?ブラフマンなのか?
シヴァなのか?クリシュナなのか?カーリーなのか?
一なる神や宇宙の母のような抽象的なものなのか?
「神」は、どのような祈りの言葉、マントラ、供物、儀礼を好むのか?
花や香、動物の燔祭、笛やシンバルの音、五体投地を好むのか?
どのような偶像に刻み、何を象徴物にして礼拝すべきなのか?
霊性は、智慧・慈悲の適用、菩提心、慈悲、エゴの無い愛の実践によって自らの内にその理解を見いだすものであり、つまり、他者への態度、行動に霊性は反映されるものだ。
このような実践の内に、霊性、我々が仕え、バクティを捧げるべき「神」を見いだす。
これは「全ては神のあらわれ、ホトケのあらわれ」といったバクティ・ヨガや大乗仏教やスピリチュアルの思想や実践と同じものだ。
バクティ・ヨガを例にとるなら、クリシュナを愛し礼拝するのなら、そのクリシュナへの愛と礼拝と献身は、他者への愛や慈悲として表現されるということだ。
このような意識、精神性や態度の修習を生起次第としよう。
関連note:【バクティ】信仰・礼拝の対象について
究竟次第
生命エネルギーを利用する実践が究竟次第とされる。
この生命エネルギーについては、情動、「生命欲動」という観点からも思索している。
関連note:生命エネルギーと生命欲動?チャクラ、ヨガ、瞑想、クンダリニー症候群
究竟次第では、生命エネルギーを制御する必要があるが、ではどのようにそれは行われるのか?
生命エネルギーは、人間の情動、「生命欲動」と関係が深いだろうと考えている。
ではその情動に関して、人間の意識ー神経生理システムのいかなる要素が、生命エネルギーの制御に必要なのか?
それは顕教の実践による「功徳」、「内的な理解」である。
菩薩行、慈悲、エゴのない愛の実践によって、自らの内に見いだす理解、歓喜、精神・情動、「功徳」である。
このような思索を通して、金剛大乗の道次第、内と外、智慧と慈悲、顕教と密教、生起と究竟とを貫く一乗の実践を模索することができるのだろう。
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