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「基本的な瞑想」と禅や他の瞑想

基本的な瞑想

私は数ある瞑想法の中で基本的な瞑想と呼ぶものを重視して日課としています。
座って心を落ち着かせるだけのシンプルな瞑想です。

酷いうつ不安からの回復の大きな助けになったものです。

禅(坐禅)と比べて

この基本的な瞑想について、何回か「禅(坐禅)に似ている」などと述べてきました。

ひょっとしたらこれは正確ではないかもしれません。

私自身は禅を正式に習ったことがありません。
座禅の特に何も思わず、作為を捨て、ただ座るというところが似ていると感じました。

しかし違うところもあると感じています。
宗派、指導者によってはやり方に違いがあるのかもしれませんが、座禅では目を開けて(半眼とも)、少し前方を眺めるようにするなどと説明されます。

こういったやり方において、禅と基本的な瞑想では意識状態に違いが生じるのではと考えています。

基本的な瞑想においては、いわば内部の意識、内なる意識に沈潜するようなところがあると感じています。
禅においては、こういったものではないと思っています。ある種の覚醒状態が保たれるようなやり方なのではと思っています。


おそらく禅の側からは、基本的な瞑想のやり方に対しては批判が生じやすいと思われます。
そもそも内なる意識がどーのこーの言っている時点で、禅の側からは「妄想、妄念、概念、こだわりだ」などと批判が生じると思われます。

批判に関しては、まぁ、瞑想にもいろいろあるわけで、、気功の内丹(仙道)やチベット仏教の瞑想の側から禅のやり方を批判したものもありますし、テーラワーダ系の瞑想の側から、禅やチベット仏教の瞑想を批判したものもあります。

意見や批判はそれぞれです。

他の瞑想と比べて(TM瞑想、内丹)

私は最も初級のものだけですがTM瞑想(超越瞑想、Transcendental Meditation)をしていたことがあります。短期間でやめてしまいましたが。

基本的な瞑想の時の意識状態は、このTM瞑想の時の意識状態に似たものがあると感じています。

ただTM瞑想は、横にならないとか、壁に頭部をもたれさせないとか基本的なことはあるのですが、姿勢などは気にせずリラックスして、閉眼でマントラを心の中で唱えるというやり方です。

こういったやり方のためか弛緩しやすく、基本的な瞑想よりも意識状態が催眠や睡眠の状態に近くなりやすいのではと感じています。


中国の気功の「内丹」にある瞑想の中には、基本的な瞑想に通じるものがあると感じています。

内丹には瞑想によって「清虚」「清静」といった意識状態に至るというものがあるのですが、こういったのは基本的な瞑想に通じると感じています。

「清虚」「清静」といった境地において「先天の気」が生じるとか「後天を先天に返す」などと述べられることがあります。
気功に関心無い人にとっては「先天の気」なんて知らん、というものなのですが、説明としては正しいものだと思われます。

密教との関係

瞑想する人noteでは「生命エネルギー」に関する「密教」に触れていますが、実はこの密教で行っているのはこの基本的な瞑想です。
生命エネルギーというのは気、プラーナ、風(ルン)、シャクティ、クンダリニー(クンダリーニ)などと呼ばれるものに相当します。

正確にはこの瞑想に、生命エネルギーの現象を促すための工夫、条件が少し加わったものです(この工夫、条件というのは内丹(仙道)の小周天のものと同じものです)。
しかし事実上、やっていることは基本的な瞑想と同じです。

生命エネルギーの現象を生じさせるために、ヨガのクンバカやバンダをともなったプラーナヤーマや、ヴィム・ホフ・メソッドにあるような呼吸法をすることはたまにあります。

しかしこういった呼吸法はしんどいし、やっていてつまらないし、瞑想のための時間を割かなければなりません。

さらに、私のやり方が下手くそなだけかもしれませんが、瞑想時とくらべて意識の状態が粗雑に感じるので、私は呼吸法(プラーナヤーマ)は好きにはなれず、瞑想の集中状態が落ちた時など、ごくたまにしか行いません。

密教においても「基本的な瞑想」を第一に重視しています。

なので知らず知らずの内に条件が整っている人が、この瞑想をすると偶発的な生命エネルギーの体験が生じる可能性もあるかもなぁ、と考えています。まれなことだと思うので注意書きにして強調してきませんでしたが、。

 偶発的な体験については↓↓

密教について① 起源(直接体験、神秘体験)と問題点 >> 密教の起源

偶発的な体験が生じた場合には、慌てずに受け流し落ち着くというのも対応の一つです。