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瞑想のアドバイス【 サマタ(止)とヴィパッサナー(観) 】 ヴィパッサナーの瞑想は慣れてから。

noteを始めようと思ったのは、私自身が瞑想によって酷いうつ、不安から回復し、その経験によって得られた知見が役立つ人もいるかもしれないと思ったからです。
本人は気づいていないけれども瞑想が何かの助けになるであろう人は、そこそこいるのではないかと思っているので、もっと瞑想が広まって欲しいと真に思っています。

今回のこのnoteまでで述べておきたいと思っていた基礎的なことが、述べられることになると思います。

瞑想の入門・初心者向けの記事まとめ

サマタ(止)とヴィパッサナー(観)

 瞑想にはサマタ(止)とヴィパッサナー(観)があると言われています。
どの瞑想がサマタ(止)かヴィパッサナー(観)か、ということは多少議論があるようです。

サマタはよく集中の瞑想と説明されていて、例えば呼吸に集中する瞑想が該当すると言われています。
ヴィパッサナーは観察・洞察の瞑想と言われていて、感情や想念、感覚などを冷静に観察する瞑想が該当すると言われています。

仏教の伝統によると、釈迦はサマタに熟達したけれども満足できず、ヴィパッサナーで悟りを得たと言われることが多いようです。


現在は瞑想というとヴィパッサナー(気づき、観察、洞察の瞑想)がすぐに思い浮かぶようになりました。

ジョン・カバット・ジンの提唱のマインドフルネスやGoogleの優秀なエンジニアであったチャディー・メン・タンによるSIY(サーチ・インサイド・ユアセルフ)という研修プログラムの中に観察の瞑想があったり、テーラワーダ(上座部)仏教のヴィパッサナー瞑想などの評判によるものだと思います。


 一方で私が日課としているのは、このサマタ(止)とヴィパッサナー(観)という2つの瞑想の分類でいえばサマタです。
座って呼吸を落ち着け心を静かにしているだけのシンプルなものを基本的な瞑想として実践しています。

マントラをつぶやいたり、神仏をイメージしたりといったこともしていません。


テーラワーダ仏教系の瞑想においても、ヴィパッサナーを全面に出しながらも、やはり基礎段階としてサマタを尊重する指導者もいます。

日本の禅も、ヴィパッサナーの要素もありながらも、どちらかというとサマタであると言われることが多いようです。


あと特に入門・初心者の場合にはヴィパッサナーのつもりで瞑想していても、実はサマタをやっているという人もいます。
感覚・感情が生じても、それに巻き込まれないように冷静に観察し、受け流し、呼吸に集中を戻そうというのは、どちらかというとサマタです。


ますはサマタの瞑想から ―― ヴィパッサナーは慣れてから。

 サマタかヴィパッサナーかについては、議論のある話題なのですが、仏教であれヨガであれ、伝統的な方法で瞑想を学び始めて経験を積み、かつ良質な瞑想ができるようになった人の中には、しばしばサマタから始めた方が良い、と主張する人が多いように感じます。


私としても大抵の入門・初心者にはサマタの方が良いと思っています。
サマタの方が安定した瞑想に入る訓練として適していると考えています。

ヴィパッサナーは単刀直入に言うと、入門・初心者向けではないです。

瞑想に慣れていない人がヴィパッサナーをする場合には、判断せずにあるがままを観察するとか、感情・感覚にラベリングするとかに気をとられ、安定した瞑想に入ろうというところが欠けていることが、しばしばあると思います。
これだと瞑想としては、あまり意味ないです。

中途半端にそういったことをするのなら、認知訓練としてやればいいというものであって、瞑想にはならないです。
入門・初心者はまずサマタの瞑想で基礎を築くことをオススメします。


ヴィパッサナーの瞑想は、とらわれなく自分の感情・感覚を冷静に観察し、それがうつ不安に効果がある、と言われることがあります。実際にそういったこともあるのでしょう。
ただ私は自分の体験から、サマタの瞑想で安定した瞑想状態(瞑想態)が得られたら、それ自体に瞑想の効果効能があると考えています。

心身に良い効果を期待するにしても、何もヴィパッサナーにこだわらなくても良いと思っています。
実際に私はうつ不安の酷い状態から回復するのにヴィパッサナーの瞑想はやりませんでした。

ヴィパッサナーはサマタの瞑想に慣れてからの方が良いと考えています。
サマタによって得られた心理・認知の効果が、ヴィパッサナーによって、より優れたものになるかもしれません。

関連note:瞑想による癒やし ―― 内なる意識の治癒力 [ 仏教の成立についても ]


関連note:仏教における智慧。マインドフルネス瞑想『自由への旅』(ウ・ジョーティカ・セヤドー)


瞑想を習慣にするには

 瞑想に興味を持って始めてみても、多くの人は続かずに習慣化できないかもしれません。

私の経験では瞑想を習慣にするために最も必要なことは、ズバリ言うと、瞑想に上達して安定した瞑想状態(瞑想態)を得ることです。そうすれば瞑想が自分の一部のようになり習慣になります。

それは瞑想態それ自体が、ヒトの生物学的基盤の中にあることで、もともと自分の一部であるようなものだからです。
今まで自分の内にありながら、自分でも気づかなかった自分に気づくようなところがあるように感じます。

瞑想態は特にヒトにおいて顕著な(潜在)能力・状態であり、この瞑想態もしくは瞑想態によって得られる何かを求めるのは本能的衝動としてヒトの中にあり、そしてそれこそが人類における瞑想の起源であると考えています。
瞑想の起源は宗教であるというよりも、もっとヒトの生物学的基盤に根ざすものこそが瞑想の起源であると考えています。  瞑想の書 第3章

私は瞑想態こそが瞑想を瞑想たらしめているものであると同時に、自分自身の一部であるのだから、瞑想をサボっていると、何か重要なものが欠けた感じがしてきます。
それで瞑想が私の日課になっているような気がします。

瞑想を続けていると同じような感覚が生じるかもしれません。
そうなれば瞑想は習慣になることでしょう。

まずはサマタ系のシンプルな瞑想から始めていきましょう。


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