生命エネルギーと生命欲動?チャクラ、ヨガ、瞑想、クンダリニー症候群、、、
クンダリニーなど生命エネルギーについて、つれづれなるままにそこはかとなく、結論もなくまとまりのない思索。
BGMはとくに意味ないけど金剛薩埵 ヴァジュラサットヴァ(Vajrasattva)のマントラ
そもそも人体の神経生理システムに基礎がなければならないはず
人間にはクンダリニーなど生命エネルギーの活動、体験があるのなら、それを可能にする人体の神経生理システムがなければならないはず。
たとえ人間の本質は物質を超えた超越的霊的な実体であろうとも、この物理的な世界で物質的な身体をもって活動しているのは事実。
「意識」ですら、この物理的物質的な世界の限りでは、その発現は脳ミソという物質に依存している。
そのため「神秘の」クンダリニー、生命エネルギーなる活動、体験がある場合には、必ず物質的な人体に、そのための基盤、それに対応するシステムがなければならない。
また、人間の「魂」に関することではなくて、人間の人体に関しては、この地球上での進化生物学的な産物である。
とりあえずは、このクンダリニーなど生命エネルギーは、人間の意識ー神経生理システムにおける創発現象であると考えよう。
進化生物学的には偶然の産物ということになるのか?
神経生理システムの「情動系」を重視して考察しよう
その神経生理システムはとくに「情動系」と関係が深いとして考えてみよう。
では情動、情動系とはどのようなものなのだろうか?
それは
生命欲動、生命の欲求 ―― 情動における根本的な欲求、衝動、駆動力
情動における根本的なものについて、とりあえずこれを、生命欲動、生命の欲求、衝動として思索してみよう。
生物として ―― 衝動によって駆り立てられる性質を持った動物として ―― 人間として、生存し生命を保ち、それを良いものとして肯定し欲求し愛し喜ぶような欲動、衝動である。
これは、遺伝子にも組み込まれた本能的なものなのだろう。
この遺伝子にも組み込まれた生命欲動について思索するのに、指摘したいのは特に以下の2点である
・「個我」に限定されたもの
個我に限定される生命欲動は、生物個体としての自分自身の生存、欲求に関するもの。
自分自身の生命、存続を欲求し、存続を脅かすものに対しては逃避・抵抗し、生命の存続に利するものを求め喜ぶというものだ。
・「個我」を超えたもの
個我を超えた生命欲動は、言葉通りに、個体の自分自身を超えたもの。
自分自身の個体以外の他者、集団の生命、存続を欲求し、その存続に利するものを求め喜ぶというものだ。
この強度や表現には生物学的個体差があるかもしれないし、特に人間にあっては、精神性、性格、教育、人生経験、環境、信条、、、、、なども関係するかもしれない。
この個我を超えた生命欲動は、自分自身の個体の生命・生存を超えたものであるため、とくに人間にあっては「物質性」を超えた「精神性」といった要素が強く必要とされるのかもしれない。
知性や精神活動が発達した人間にあっては、本能のままにこの個我を超えた生命欲動が発揮されることもあるだろうが、精神性にって鼓舞され、動機づけられることも多いのではないだろうか。
個我を超えた生命欲動というのは、家族愛など血縁によって結ばれた親愛に分かりやすく表現されるだろう。
また郷土、組織、国、人種、民族、思想や宗教や政治信条などを同じくするグルーブの親愛などによって表現されることもあるだろう。
さらに人間という種を超えたり、地球環境といったものにおいても表現されるかもしれない。
この個我を超えた生命欲動というのも遺伝子に組み込まれた本能的なものと考えられるのではないか。
これは地球上に生命が誕生し遺伝情報というものが様々に変化しながらも、悠久連綿と継承されてきた、ということも関係するかもしれない。
また自分自身の属する血縁関係や共同体の存続が、自分の遺伝的つながりのある遺伝情報の保存存続に有利であるなどもあるだろう。
また他者とのつながりが生存のために必要であり、このことが遺伝子にも組み込まれているとも考えられる。
人間には愛他利他の精神やその衝動や歓喜が遺伝子レベルでもプログラムされているという見解もある。
愛、親愛、信頼で結びついた他者・グループとの良質な関係は、個体としての生存確率を高めるし、また、似通った遺伝グループの存続継承を助け、これが共同体の秩序や奉仕の行動にも生物学的、本能的レベルでも関係するのだろう。
「創発現象」「生命エネルギー」と呼ぶことについて
根本的な欲動、欲求では分かりやすいものである性欲をとりあげてみよう。
この性衝動に駆り立てられた人体では反応が生じる。
対応する器官、内分泌腺、神経生理が衝動によって駆り立てられ様相・活動に変化が生じる。
性衝動という欲望によって活動力がもたらされるのが一般的に容易に知られている。
「性欲」というのは、たしかに、心理的、精神的なものではあるが、しかし、物質的な人体を駆り立て、状態を変化させ、活動力を生じさせる。
また情動、神経生理、一つ一つの器官、内分泌の活動の集合であって、全体像としては創発現象として認識されるとも言えるのではないか。
生命欲動、生命の欲求というは、一面には精神的なものではあるが、しかし、明確に人体の活動力でもあるので、「エネルギー」として感じられ、「生命エネルギー」と表現される場合があるのも適切なのではないか。
情動、生命欲動と歓喜
本能的、根本的な情動である生命欲動の性質の一つは、快・歓喜を求めることであると考えよう。
人間の心理・精神に働く、快・歓喜を得ようとさせる生命衝動、駆動力であると考えよう。
欲動の基底には歓喜があり、歓喜によって駆り立てられ、歓喜を目的とする。
個我を超えた生命欲動にあっては、「大いなるもの」「大義」「他者」への奉仕的精神で個体の犠牲や死すらも歓喜と感じ、喜々として自ら死地におもむくといった、献身、自己犠牲の歓喜として表現されることすらもありえるのだろう。
この人間の内にある歓喜を得ようとする衝動、駆動力である生命欲動は、チャクラ、結節(グランティ)などといった説明を含む古来から生命エネルギーの実践体系にも関係するのだろう。
チャクラ、結節(グランティ)と生命欲動
人間にあって、個我に限定された、もしくは、個我を超えた、この生命欲動の表現には、様々な相、段階があると考えても良いかもしれない。
この考えにチャクラや結節(グランティ)といったものを導入するのも面白い。
・第1~3チャクラとブラフマ グランティの段階
人間の生命欲動の内で、動物個体としての生存に関する欲求・情動。
本能的な情動や動物的、感覚的な快、歓喜を求めるもの。
生殖や食欲などの快、喜び。
安逸。闘争。獲得のための活動。
生存や本能的・感覚的な快を脅かすものに対しては逃避・抵抗へと駆り立てる。
欲求 ―― 「私は欲する」「私は享受しよう」
・主に第4チャクラとヴィシュヌ グランティの段階
生命欲動の内で、特に精神性、情緒情操における衝動、歓喜に関する。
他者性、社会性にも関係する。
生存のためにも他者や集団との良好な関係性が有利とされる。
生物としての個体、個我を超えた衝動や精神性にも関係するのだろう。
ただの動物ではなくて、発達した情緒・精神をもった人間としての成長。
知能や工芸的能力とともに人間の内に求められる、人類の文明・文化の起源の一つとも言えるかもしれない。
憧れや願望 ―― 「私は願う」「私は与えよう」「私は他を愛する」
・第5~7チャクラとルドラ グランティの段階
きっと「意識」や意志や知性に関係するような欲動や歓喜なのだろう。
またこの段階では、さらに個我を超えた「大いなるもの」に関係するのだろう。
それに動物としての基本的な欲求や、人間としての自然なものでもある感覚的な快などではなくて、もっと内面的なもの、精神性的なものへの欲求、衝動とも関係するのかもしれない。
意識・意志 ―― 「私は意志する」(「私は意識する」「個我を超越しよう」「自らの生命・意識に向かおう」)
瞑想やヨガ、呼吸法、ゾクチェン
まだうまく言葉にできないが、瞑想やヨガ、プラーナヤーマ・呼吸法、ムドラーは、この生命欲動のシステムに何か関係があって作用する仕組みになっているのかもしれない。
またなんとなく直感するところでは、生命欲動の考察は「ゾクチェン」とも関係するかもしれない。
関連note:【ヨガの分類②】クンダリーニ系ハタ・ヨーガ。瞑想やムドラーを重視する密教のヨーガ
顕教、心の浄化
チベット密教やインド・クンダリニーヨガなどの精神的伝統での生命エネルギーの実践体系では、精神的修養や心の浄化が説かれている。
これについて、この生命欲動の文脈ではどのように考察すればよいのか?
古来からいわれてきたことを参考にすると、生命エネルギーの高度の体験は、「低位のチャクラ」よりも「高位のチャクラ」に関係が深いものであり、個我を超えたものである。
個我を超えた生命欲動というのは、精神性の要素が強く、「大いなるもの」を指向するものであり、愛他利他、大いなるものへの奉仕献身といった要素があるのではないだろうか。
また生命欲動というのは、歓喜を基礎とし、歓喜を求め、歓喜を目的とするのだから、生命エネルギーの実践において必要とされる心の浄化、心の訓練というのは、愛他利他、奉仕献身における歓喜に関係すると言えるのかもしれない。
―― 欲すること、願うこと、意志し行動することにおいて。
関連note:密教の資格。密教との関係で顕教について
クンダリニー症候群
生命エネルギー、クンダリーニの実践には様々な障害、危険性があると伝統的にいわれてきた。
その中にはクンダリニー症候群と呼ばれるものもある。
生命欲動の考察の観点でもクンダリニー症候群について触れておこう。
クンダリニー・生命エネルギーの活動・体験というのは、個我を超えた生命欲動に関係するのだろう。
伝統的にも、ふさわしい身体的な準備や精神的な訓練、修養、「心の浄化」が必要だとされてきた。
しかしこの必要な準備や心の浄化がなされないまま、クンダリニーの活動が引き起こされた場合には、どのようなことが考えられるのか?
もし、このような生命エネルギーの活動が純精神的なものならば ――「ある思想を抱く」のような肉体の諸器官や神経生理と関係の薄いような純精神的なものならば―― 、心理的精神的な不調のようなものと片付けることが可能なのかもしれない。
しかし生命エネルギーは、人間の「欲動」が密接に絡むものであり、欲動というのは、精神だけではなくて脳・神経生理にしっかりとその場を持つものだ。
なので、生命エネルギーとのふさわしくない関わりは、精神的な混乱で済むものばかりではなくて、深刻な場合には、神経生理的な、脳、神経、内分泌にわたる疾患、損傷をも引き起こすこともあるのではないだろうか。
上座部系の修行、瞑想との関係
上座部系の修行では生命欲動は肯定されないのではないか。
生命欲動は煩悩、渇愛とされ厭離、離欲によって対応されるのではないだろうか。
生命エネルギーの実践とは違った対応がなされるのではないだろうか。
関連note:仏教における智慧。マインドフルネス瞑想『自由への旅』(ウ・ジョーティカ・セヤドー)【ヴィパッサナー(観)の瞑想】