父が逝った日記
父が逝った。あれ以来、北枕で寝ている。
晩年と言うには長すぎる15年間、闘病した。肝炎からの肝硬変、脳梗塞、脳梗塞、脳梗塞の後に胃癌が見つかり、胃の全摘手術が成功してまもなく肺血栓塞栓症で逝った。
『夜と霧』とか『はだしのゲン』とか、ボブサップにマウントから拳を振り下ろされ続けた高山善廣とか映画『アレックス』の消化器で顔面を破壊するシーンだとか、人が徹底的に傷めつけられる描写を目にすると虫唾が走り、正気を失いそうになるほどのやり場のない殺意に近い衝動が生まれる。致死級のヘビーパンチを受けては立ち上がり、ようやく生活が安定してきたと思ったら次のパンチが飛んできて、1歩進んで5歩下がるを繰り返しながら死線の土俵際で踏み留まり続けるパンチドランカーと化したリハビリ一色の15年だった。透明な病魔のクリンチが長すぎる。殴りたい。離れてくれ。もういいだろう、いい加減にしろと思った。最後は半日で逝ったから、よかった、やっと楽になったんだねとか、そんなふうに思えるわけがない。
俺が大阪出張から戻った翌日の休日、早朝6時台に看護師から電話が入り、母と車で部屋着で病院へ急行した。そんな格好のまま夕方に葬儀社に行くとは思っていなかった。同じく急行したのであろう普段着に白衣を羽織っただけの主治医から、容態が良くない旨の説明を受ける。集中治療室に入り、人工呼吸器に繋がれた父を見る。家に戻っても落ち着いていられるわけがないので、母とコメダ珈琲へ入りモーニングを食べた。飲み物をおかわりする。午前中のコメダ珈琲では、飲み物を単品で注文しようとすると「モーニングはいかがですか?」と聞かれる。3杯おかわりをして、3度目の「モーニングはいかがですか?」に3人で吹き出した。マニュアル対応に心が救われたのは初めてだった。
ホットコーヒーと甘すぎるミックスジュースとコーヒーフロートを飲み終えてトイレに入ると案の定、電話が入った。病院に戻るとバイタルが落ちている。おそらく血栓が肺で詰まっており、この状況での救命率は極端に低いと言う。主治医の状況説明を意訳すれば端的に「もう手の施しようがない」だった。心臓は元気でも他の五臓六腑が生きていても肺で呼吸できなくなれば人は死ぬのだ。
そもそも、胃の全摘手術はハイリスクの決断だった。術後、切除した全部位をこの目で確認した。恐ろしい物量だった。人間の体からこれほどの臓器を切除すれば相当なダメージが残ることが直感的にわかるほどの。脳梗塞を3度やり、1日も欠かさず飲んでいる抗血栓薬を術前から術後しばらくストップしなければならなかった。結果的にその影響が直接的死因に繋がった。そのリスクは本人が承知していた。すでに半身不随で言語障害や複視などの後遺症を抱えギリギリ正気を保って生活をしている中、確実に迫り来る死を待ちながら進行癌と闘うというさらなる重荷を背負うより、大きなリスクを承知で不確実な未来に賭けたのだ。それは傍目によくわかった。賭けて、散った。自分の人生だ。尊重した。
実質的に死を待つのみと告げる主治医に私は「父の死を受け容れるために、この状況下での手術の決断がどれほど困難なものだったのかを改めて教えてもらえないだろうか」と請うた。主治医は「リスクは十分に説明申し上げた。残念だが、最善は尽くした。仮に手術をしない選択であっても我々は全面的に協力するとも申し上げた」と言う。気持ちはわかる。反社的な風貌の男が静かに医療過誤の疑念を訴え始めたと思ったのかもしれない。「いやそうではない。先生を責めるつもりは全くないのだ。リスクの説明は受けていたし、父の決断を全面的に尊重しているし、大手術を成功させてくれた先生に感謝している。後悔もない。ただ、これから我々はゆっくり死を受け容れなければならない。その足がかりに、親父の選択がどのようなものだったのか、先生の客観的な見解を伺っておきたいのだ」「ちょっと、おっしゃる意味がわからない。すべてのリスクを説明するのは不可能だ。明日交通事故に遭うリスクまで話さなければならないことになる」。
ああ、これは無理なんだと思った。実際無理だったのかもしれない。管轄外でもあるだろう。まだ死んでもない親父の耳に押し問答が聞こえてしまうのもよくない。「まだ息をしている段階で予後不良とわかって我々に連絡していただいてありがとうございます」と伝えて病室を出た。医者は大変な仕事だ。感謝している。
いろいろな準備が始まるだろうからと、なんの準備をすれば良いのか全くわからないまま病院から自宅へ向かった。家が近づいてきた頃、母に電話が入った。後部座席の母が電話口を押さえて俺に「病院に戻ろう」と言う。そうですか心臓が止まったんですか云々話しながら息を詰まらせている。いや待て、待て。タイミング。俺は運転している。今事故ったらシャレにならない。ラジオの音量を上げてUターンし三たび病院へ向かった。
家で待機していた妻と二人の娘も遅れて病院に到着し、まだ温かい左手を触った娘二人が病室の外に響くほどの声で大泣きした。
わたしの娘は、わたしの両親と同居している。妻の提案から「ちびまる子ちゃん」のさくら家と全く同じ構図で6年近くを過ごした。次女がまる子で、友蔵が逝った形だ。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば日本で「夫の親と同居する夫婦」は全体の16%であり、積極的な理由で同居する世帯はその1%もない。しかもこれは2013年のデータだ。「ちびまる子ちゃん」で描かれる家族が昭和から平成にかけての日本の家族形態を象徴する姿だったとすれば、令和6年の今、それは絶滅危惧種になった。
今となれば同居は父にとって良い選択だった気がする。最期まで糧を得るための仕事であり仕事が生きる糧であり、身体の自由を徐々に奪われながら日の半分以上パソコンに向かっていた父にとって、本当に気の休まる瞬間は孫といる時間だけだったように見えた。そして、ものごころがついた娘の中に祖父の記憶が微かに残る意味で、肉親の死を味わう辛くも尊い体験をしたという意味でよかったと思っている。決めた時からその日が来るとは知っていた。
若い頃、初めて近親者の臨終に接し死亡確認の直後に病院と提携している葬儀屋と地下の暗室で打ち合わせた時は目の前の担当者が死神に見えた。
人生最大の悲嘆の入口に立ち何もできなくなっている人に、誰に訃報を伝え何人参列する予定かだの予算はどの程度かだの祭壇や精進落としの弁当や返礼品や火葬のグレードはどうするかだの供花や弔電の順番はどうするかだの会計は誰に頼むかだのBGMはどうするかだの次々に決めさせる。最近は葬儀業界に中国資本が入り価格変動も激しい。こっちは人生で最も乱れている。言葉や態度を一つ間違えればその場で暴れる人がいてもおかしくないと思った。大変な仕事だ。
当日も通夜から妙に忙しい。弔問に訪れた一人ひとりに挨拶したいし、会計担当の親戚に「たまに不祝儀袋がカラになっていることがあるらしいけどその場合誰が当人に声をかけようか良介だと借金の取り立てみたくなるからあたし行こうか」などと相談したり、焼香してくれる人数分頭を下げたいからお辞儀マシーンで腰痛くなるし、浄土宗の住職が読む「願我身浄如香炉」の「願我」が「ガンガー」に聴こえてガンジス川とかけているのではないかなどと思ったり、木魚を叩くリズムが明らかな「裏打ち」でお経を邪魔しない独特のビートがお堂全体を包み待てよ天台宗も真言宗も曹洞宗も表打ちだったろ法然ロックやなと思ったり、精進落としでは新入社員時代を思い出すビール注ぎマシーンと化すしでとにかく休む時間がないのだ。
しかし、そのすべてが有り難かった。怒涛の通夜が終わりに近づき参列者を見送りながら確信したのは、これは日本人が培ってきた知恵なのだ。遺族に悲しむ暇を与えずやるべきことに追わせているのだ。悲しみのやりどころを見つけられないまま万難排して駆けつけてくれた人々と会い、棺の小窓からともに父の死に顔を見つめる。それは、ひとり悲しみに落ちる前に悲しみを分け合うシステムだった。悲しみを他人と共有するまでの橋渡しを担うのが葬儀屋だった。俺が「休む暇がない」と思った裏で、同じように休む暇なく複数の葬儀を受け持ち同じように悲嘆に暮れる人々を相手にしている。本当に大変な仕事だ。感謝している。社長自らが取り仕切ってくれた葬儀屋の担当者は、俺の幼馴染みの弟だった。頼もしかった。
焼香に立つ一人ひとりの姿を拝見しながら、自分の結婚式を思い出した。呼びたい人だけを呼んだ結婚式で高砂の前に立った時に見えた景色は人生半ばに見る走馬灯だった。ここにいる人たちが俺を作っていると信じた。そして次にこの景色を見るのは身体を離れた後だと思った。いかに長い時間を過ごそうと私が知る父は多面体の一側面で、今ここで亡骸に手をあわせ涙を流す人や何かを思い出すように微笑む人やお経のリズムに誘われて眠りに落ちた私の娘の一人ひとりが父の姿そのものなのだ。参列者は、故人の断片として自分の一部を弔いに来てくれたのだ。人が死ぬのは大嫌いだが、絶対に死んでほしくなかったが、人は必ず死ぬ。人が人でできていることを知る葬儀はいいものだ。
私の母は6人姉妹で父には一人姉がいて、全員結婚しており、私のいとこは15人いる。叔母も叔父も伯母も伯父も全員存命で、私の父はその中で最も先に逝った。その親戚がほぼ全員集合した。私の祖父が生きていた頃は、毎年全員集合しては酒盛りをしてオールスター感謝祭というかドリフを地でいくレベルの集団ヒステリーに近いとんでもない大騒ぎをしていた。みな年をとり、いとこは家庭を持ち、だんだん集まらなくなった。それがいつ以来か再集結した。親父が死んだことで。カメラで写した親戚は、喪服を着た笑顔だらけだ。その写真を今見ると笑えてくるから、撮っていた俺もきっと笑っていた。カメラは、撮る人を写しているんだ。
通夜から火葬、初七日までは完全に僧侶に助けられた。悲嘆の極みにある遺族を背に、ライブの最前列で制する警備員のように、この世の番人のように淡々と読む経のリズムに身も心も預けた。私は、家族が逝ったら彼に頼もうと30年前から決めていた。彼は、私が幼稚園で出会った生涯初の友人の一人だ。彼の親父も弟も住職で、その全員が焼香をあげてくれた。わたしの髪は3人の住職よりも短かった。
通夜の晩、俺はその住職に頼み込んでひとり寺に泊まらせてもらうことにした。寝ずの番を請うた。ちょっと寝たけど。自宅と同じように、父の隣の部屋で寝た。参列者の一人に、父が最も親しくしていた高校時代の友人がいた。彼は父に文を書いてきた。ビートルズの曲になぞらえたその文は、詩だった。詩は音とともにある。私は父の棺の小窓を開け、サブスクで青盤を流しながらその詩を全編朗読した。そこには俺が生まれる前の、俺の知らない親父の姿が記してあった。
それを引き継ぐように、導かれるように、俺は40年間のダイジェストを尾野真千子調で感情的になりすぎないよう親父に語り始めた。俺と親父にしかわからない話を二人きりでしているのに俺の声だけが本堂に響き、二酸化炭素を吸わないように内緒で棺をちょっとだけ開けて俺みたいな額が冷たい俺みたいなよくしゃべる親父から本当に返事がないことを初めて悟り棺を閉めて親父が死んでから初めて泣いた。ボロボロ出てきた。悲しみを先送りするジャパンの葬儀文化は素晴らしいが、二人になりたかった。まだその姿をこの目に映せる段階で悲しみたかった。悲しみに沈む時、涙の源流を辿ってひとり潜る時、深く愛していたことを知るのだ。
悲しみは癒えず、笑いは悲しみを隠し、悲しみは悲しむことでしか対処できないから、これからも悲しみたくなったら積極的に悲しんでいこうと思っている。それが辛いだけではないということくらいは知っている。弓を引くように、思い出すことで生きてきた。しかし、母は違うだろう。ある僧侶が「連れ合いの死は辛い」と端的に言い切っていた。母の心痛がどれほどのものか、いくら想像しても及ばない。誰とも分かち合えない辛さを、これから世界中に染みついた父との記憶を思い出すたびに味わうのかもしれない。
この間、どこか、母が友に変わっていくような感覚がある。その理由は今はよくわからないのだが、少なくとも、父の晩年と臨終と葬儀を母とともにできたことはよかったと思っている。
父の名前は「哲男」と言う。俺が最後に聞いた言葉は、術後にいま何を思うか問うた返事の「自分がいま何を思っているのかを考えている」だった。ダメなインタビュアーみたいな俺の質問も悪いのだが、返答が哲男すぎて笑った。誇りを失わず、父は逝った。
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