『方舟を燃やす』角田光代
1967年生まれの地方出身の男は、母を早くに亡くしたものの、大学を経て公務員に納まります。一方、彼よりも一回りほど年上の東京生まれの女は、家の貧しさ故に大学には行けなかったものの、高校を出て就職して間もなく結婚し、専業主婦になります。男は、子供の頃の不気味な噂話から現代のSNS上の真偽不明な情報まで、とかく流されがちです。女は、たまたま訪れた講習会で学んだ独特かつ極端な健康食料理にのめり込んで行きます。世の中が激変するにつれて、両者の生き方も当人たちの思わぬ方向に向かいます。やがて両者は意外にも、こども食堂と言う場で接点を持つことになるのでした。
あまりにも不確かな時代の中で、何が真実で、何を信じるのか、と言う根源的な問題に向かい合う物語です。1967年から2022年の半世紀超、二人の主人公の視点を交代しながら、物語の年代が進んで行きます。
信じるものの対象には、宗教から、世間のくだらない噂話まで、様々な程度のものが含まれる訳ですが、実はそれらの間にはさほどの差がないことに気付かされます。主人公の女性が信じている体に悪い食物は、宗教的な食物の禁忌とどこか似ています。その娘の、更に突き詰めたような生活は、もはや母から見ても異様なものになっています。単に程度の差でしかなさそうです。一方の主人公の男性がSNSに流した情報のように、良かれと思っていたものが、実際にはむしろ悪であったりもします。
あまりにも多様な情報に溢れている現代は、それ自体が悪いこととは思いませんが、その情報が真か偽か善か悪かの判断がかつてない程に難しくなっているのは確かです。更に、多様性が尊重される現代では、それ自体はやはり良いことなのですが、判断基準となる価値観も個人による相対的なものになっています。そんな中でも、何かを信じて頼りたいと思ってしまう根源的な欲求のようなものがあるのが、厄介なところです。
それぞれの時代に実際にあったあれやこれやが物語にリアルに盛り込まれていて、丁度この時代を行きて来た私には懐かしさと臨場感をもって迫って来ました。著書と同世代であることの幸運を思いました。
著者の文体の雰囲気が今までの作品からちょっと変わったようにも思いますが、切迫感を持って読者を物語に引きずり込むところは、やはりこの著者ならではの作品でした。
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