見出し画像

私が仏教についての記事を書く理由(一)


普遍的な真理を求めて

私が仏教に関する記事を書いていますのは、仏教で説かれている有益な思想や法理を多くの方に知っていただきご活用いただけると良いな、という思いからです。なぜなら、真理は人類に共通する普遍的なものと信じているからです。民族や宗教によって、論旨の捉え方や表現は異なっても、根源を遡れば同じところに行きつく、それが真理というものだと思うのです。
 
私自身、その普遍的なものを追究しながら自分なりの表現を試みていきたいと思っております。読者の皆様にも、「仏教」という一宗教の枠組みに囚われることなく、そのエッセンスを直観的に掴むような感覚でお読みいただけたら嬉しいです。

法華三部経

私は法華三部経を中心に仏教を学ばせて頂いております。法華三部経はその成立時期により、「お釈迦さまが直接説かれたものではない」として否定される向きもありますが、これだけ長く読み継がれてきたということは、人の心に響く本質的なものが含まれているのだと思います。ですから、学術的な研究は別として、本物か偽物かという議論に時間を費やすよりも、自分の生き方に関わる部分で「どういうことが著されているか」と思索を巡らせる方が有益であると思います。

法華三部経の中核とも言える妙法蓮華経(法華経)は、お釈迦さまが眉間白毫相から光が放たれ、肉眼では見えない法界や未来世の様子を映し出すシーンから始まります。その場に集まっているのは、
大比丘衆だいびくしゅう(出家者)萬二千人」
学無学がくむがく(迷いがまだ残っている人及び煩悩を滅し尽くした人)二千人」
菩薩八萬人ぼさつはちまんにん」等々…お釈迦さまが生きられた時代の弟子のみならず、木や草の精霊まで含む全法界の衆生が数えきれないほどたくさん集まっています。

出だしから現実離れしているわけですが、現在もSF映画のような表現手法があることを考えますと、何かを強調するための脚色とも捉えられるでしょう。

法華経では、お釈迦さまを「世界を創造した本仏」として位置づけておりますので、その本仏が映し出された光景には予告的な意味があると考えられます。しかし、この光景は〈東方萬八千とうほうまんはっせんの世界(はるか東方にある一万八千の世界)〉と表現されているものの、具体的に何であるかは、経中に登場している仏弟子らは理解するがことができません。
 
当然、現代に生きる私たちにとっても理解が難しいところなのですが、私はこのシーンを、
「未来世に仏の国を完成させるぞ。」という本仏の宣言と捉えました。そして、その仏の国ができる過程や手段・方法が続く品で詳細に説かれていると考えて解釈を進めて参りました。といいますのは、聖徳太子が法華経を読んで、「日本に仏の国を造ろう」と志を立てられたというお話を聞いたからです。

仏教の価値観

聖徳太子は日本の政治体制の礎を築いた人物で、その理念を十七条の憲法に表しました。「憲法」と言っても現代のそれとは異なり、政治に関わる人が守るべき心がけや道徳を表したのが十七条の憲法です。

その第一条にあるのが有名な、
「和を以て尊しと為し…」
の一節です。
ここにある「和」は仏教が最も大事にしている価値観です。

「和」というと「良好な人間関係」が真っ先にイメージされるかもしれませんが、仏教の説く「和」には「世の中の調和」というような広い意味があります。

太陽系の惑星が調和を保つことで存在し続けているように、この世の全てのものにはあるべき調和の状態があります。木星が土星のことを好きになって近づこうとして軌道を外れたら、たちまちにバランスが崩れ、星そのものが消滅してしまうことでしょう。

調和の追究が仏道

お釈迦さまはご出家前、国の太子であられました。生活は豊かで、いわば「楽」を極められたといえます。そのお釈迦さまが出家後、取り組まれたのが肉体苦行です。「楽」の反対の「苦」を極められたのです。

これ以上ない極苦の肉体苦行を修められたにもかかわらず、お釈迦さまは悟りを開くことはできませんでした。そこで、お釈迦さまは、いたずらに肉体を苦しめるのではなく、食を取って体力を回復し、心の上で解脱を得ようと考えられました。極楽と極苦をご経験された上で、中道の立場を取ることにされたのです。

そのような時にちょうど現れたのがスジャータという娘でした。痩せ細っていらっしゃるもののどこか気高さのあるお釈迦さまに、スジャータは敬いの心を起こし、牛の父で作った粥を捧げたのです。お釈迦さまはこれを受けられて、次なる三昧行に入られたのでした。

このお釈迦さまのエピソードのように、極端に寄らず、「中道」の立場を取ることが「調和」の一例です。

二例目はお釈迦さまが菩提樹下で行われた三昧行です。

「どのような座り方にすべきか?呼吸法は?心の状態はどうあるべきか?」という試行錯誤の末編み出されたのが結跏趺坐けっかふざで行う三昧の様式です。これこそが人間の身体と心の「調和」が取れる状態であるとお釈迦さまは自らの体験により確信されたのです。

三例目は「欲(煩悩)」の扱いについてです。

仏教では、「欲を滅する」という表現はしますが、これは「欲をゼロにする」という意味ではありません。例えば、食欲は多すぎると体調を崩してしまうものですが、だからといって全く無くなってしまっては生きていくことができません。

欲についてもお釈迦さまは「調和」を説かれています。「多すぎても少なすぎてもダメ」、「ちょうど良いのがちょうど良い」ということです。使い方によって、良くも悪くもなるのが欲ですから、「調える」ことが大切なのです。

以上の三例は人間個人の話ですが、法華経では社会全体の調和が説かれています。その完成形が先に触れた「未来世の仏国土」です。

〈私が仏教についての記事を書く理由(二)〉に続く


ここから先は

0字

seed|種プラン

¥500 / 月
このメンバーシップの詳細

経典の内容をベースにした物語を創作して書籍化することを目標にしております。よろしければサポートをお願い申し上げます。