四門出遊(しもんしゅつゆう)
お釈迦さまは、老人・病人・死人の存在をご存知なかったのか!?
「四門出遊」というのは、お釈迦さまがご出家されるきっかけとして伝えられる有名なエピソードです。ご存知の方も多いと存じますが、まずはどのようなお話か、から見てゆくことに致しましょう。
四門出遊
お釈迦さまは老人・病人・死人を初めてご覧になったのか?
一般的に伝えられているところによりますと、お釈迦さまは、この時あたかも初めて老人・病人・死人をご覧になったかのように描かれております。しかし、この時、お釈迦さまはすでにご結婚をされている年齢で、常識的に考えますと、それまで老人・病人・死人の存在を知らなかったということはありえません。では、この四門出遊のエピソードは何を表しているものなのでしょうか。
四門出遊は人間が必ず遭遇する普遍的な問題のメタファー(隠喩)
思うに、これは、人間が人生において必ず直面する問題のメタファー(隠喩)なのではないでしょうか。
思い返してみますと、多くの人が幼い頃は保護者に守られ、働かずとも食事を与えられ、いわばお城に暮らしているかのようです。そのような環境下ですくすくと成長して、たまに祖父母や親戚のおじさんやおばさんに会うと「大きくなったねえ。」などと言われたりして、成長することがちょっぴり誇らしいことのようにも思えます。そのくらいの年頃で、自分が老いて死ぬものだ、などと考える人はなかなかいないと思います。
その後も成長は続き、大人の身体に変化していくわけですが、どこかの時点で、それまでは「成長」と呼ばれていた肉体の変化が「老化」と呼ばれるようになります。「お腹が出てきた」「血圧が…」「シワが…」。私自身、若い頃は老眼の方が見えにくそうに腕を伸ばして書類を遠ざけたり近づけたりしているのを見て、「腕の長さが足りませんねえ。」と笑っていたのが、そのうち自分も見えにくくなり、「え?私が老眼?」と驚いてしまいました。
そうなってきますといよいよ「四門出遊」の時を迎えます。老・病・死が他人事でははく、我が身に起こるものであるという自覚が湧いて軽いショックを受けることでしょう。できればお城に引き返したいものですが、一度外に出て知ってしまったら、もう元に戻ることはできません。真剣に考えたら憂鬱になってしまいます。
私には学生時代から付き合いのある友人が数人おり、時々、会うのですが、学生の頃はファッションや音楽の話ばかりしていたのが、今では健康の話が多くなり、最近は「誰が生き残るか」という話まで出てきて、皆で「やめて〜!」となりました。老・病・死は、誰にとっても避けては通れない問題なのです。
仏教は苦の問題の解決のための教え
四苦八苦という言葉で代表される生きる上での苦しみは、人間として生まれてきた以上、誰もが平等に受けなければいけないものです。裕福であろうとなかろうと、社会的地位があろうとなかろうと、です。
仏教は、お釈迦さまがこの人類共通の普遍的な難問に挑んだ結果生まれたお教えです。さて、お釈迦さまはどのように「苦」の問題を解決されたのでしょうか。続く記事で書いていきたいと思います。
経典の内容をベースにした物語を創作して書籍化することを目標にしております。よろしければサポートをお願い申し上げます。