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子供を通じて世界のぐるぐるに気付いた話。


私たちって動物


長女を出産したときに、宇宙の神秘をすべて理解したような気になった。

「まだ耐えられるッ・・・!!大丈夫・・・!!」と余裕をかましていたのもつかの間、徐々に間隔が狭くなる陣痛の波がMAXになった時には息も絶え絶えとなり、何も考えられなくなった。
思ったよりお産が進まないということで、助産師さんが一度立ち上がるように言った時には半笑いで「む~りで~す」と言って困らせたりもした。
なんだかんだで無事に娘が産まれた。
この目で見たわけではないが、まさに「すぽんっ!」という感覚があったので少し空に飛んでいたのではなかろうかと思う。

人間の体とは不思議なもので、あんなに痛みに苦しんでいたのに、子供が飛び出した瞬間すべてを忘れる。
脳内に麻薬物質がドバっと出たに違いない。一瞬でテンションがブチ上がった。あの時あの瞬間であればアカシックレコードへのチャネリングもできたかもしれない。自分がこの世界の生命の歯車の一部であるということを心の奥深くから感じとり、はるか昔からずっと続いてきた連綿たる生命の営みの神秘をしかとこの目で見たという心境になった。

痛みを忘れさせる人体のシステムに感謝である。

脳内では2001年宇宙の旅のような映像が流れ、神秘的な心境になっていたが現実の私は血と汗にまみれてグロ目の胎盤がずるりと出てきている状態であった。可愛い赤子も出てきたばかりで同じくベトベトしていそうな見た目である。
産前に熟読していた妊婦雑誌では、ずいぶん美しく母子を描いていたように思う。
現実は血と汗、場合によっては糞尿にまみれ、我を忘れて生きるか死ぬかの状態で子供を産む。
その瞬間、野生に返るのだ。
人間も動物の一種なので当然といえば当然である。脳内では「ツァラトゥストラはかく語りき」のオーケストラバージョンが鳴り響いていた私ではあるが、同時に出産の生生しさを冷静に分析している部分もあり、聖なる母子像(イメージ)& 血汗にまみれた出産と育児(現実)のギャップにもまた、人生の矛盾というか諸行無常を感じたりして、さらに神秘モードが加速した。


四次元に生きる私たち


人生を例えてみる。

  1. 産まれてすぐ:一次元の世界
    自分の存在、快不快、五感の発達、自我の確立

  2. 少年少女の時代:二次元の世界
    あなたと私、君と僕、他者との関係を構築する

  3. 青年以降:三次元の世界
    視野が広くなり、様々な人間と交流し「現在」を生きていく

だとしたら、子供を持つことは「四次元の世界」に覚醒するということだと思うのだ。

どういうことかと言うと、
子を持つ=子孫を持つ ということであるから
自分が死んでも、次世代の誰かがそのDNAを未来へ運んでくれるわけだ。
DNAと言ってしまうと親戚や実子に限定されてしまうが、別に血のつながりが無くても同じだ。遺志を継ぐ次代の存在を認識するとき、人生は「時間」という要素がプラスされて四次元になるのだと思う。

つまり私たちは時を越えられる。
私たちのお爺ちゃんお婆ちゃん、さらにそのお爺ちゃんお婆ちゃんから続く生命から生まれる次世代の子供は、膨大な数のご先祖に見守られ未来へ向かって成長する。つまり私たちが死んでこの世からいなくなっても、私たちの思いや遺伝子は未来へ伝わっていくのだ。
だからこれはタイムトラベルと同じ。四次元的な世界だ。

鬼滅の刃の最終回で描かれたメッセージとほとんど同じ。


多次元的なぐるぐる


私の娘が小学校1年生になった時、作文が選抜されて、市の文集に掲載されるという嬉しい出来事があった。
担任の先生はみんなの前で発表し、素晴らしい!と拍手してくれたんだそう。
それを聞いて私もうれしくなったのだが、そこでずうっと忘れていた思い出が蘇った。

私も小学生の時、同じ文集に作文が掲載されたことがあるのだ。
しかし当時の担任は、今でいうパワハラ教師であり、当時から生意気だった私は好かれていなかった。
気に食わない生徒である私が代表生徒に選ばれたので面白くなく感じた担任は、クラス全員の目の前で文集を放り投げ、「コネを使って文集にのせてもらったのか?」と言い放ったのだ。
すごく悲しいし腹がたった。家に文集を持ち帰りはしたが、一度も文集を開くことはなかった。

娘の文集掲載、という出来事で上記の記憶を思い出した私はこう思った。
「ああ!当時の私!悲しかったね!!!嫌で嫌で、忘れていたんだね!」
そして
「あの時嫌だった思い出は、娘が嬉しい思い出に塗り替えてくれた!」と。

子供と過ごすと、もう一度自分の人生をやり直しているような錯覚になる。
嫌な思い出は良い思い出に
良い思い出はもっと良い思い出に。
娘の人生が実りあるものになればなるほど、自分の思い出もより良く上書きされていくように思う。

文集の記憶を通じて、これまた時空を超えた体験をしたと感じたものである。


エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス的な


子供に限らず、世代や性別、クラスタの異なる人との交流で私たちはすでにマルチバースを体験しているのかもしれない。

なぜなら交流を通じて、感じることや考えることの数だけ「私」が存在しているから!
時空も次元も宇宙も超えて、きっと全ては繰り返してる。
だって産後のハイテンションの最中に実感したからね!連綿と続く生命の円環をね!


今夜はやたら壮大なことを書いてしまった。
おわり。

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