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まだ消えちゃいない、ちっちゃな希望
『ラーゲリより愛を込めて』2回目の視聴。
実に良い作品だ。2度目でも色褪せることなくそこに輝いていた。
こうした映画は怒涛のお涙ちょうだい演出がつきものである。だがこの映画は純然たる事実に基づくものであり、ゆえに情に訴えるという次元を遥かに上回っている。
事実ベースだからこそこの主張には説得力がある、という私の説得は説得力に欠けるだろうか。
この世に生を受けて四半世紀になろうとしているむさ苦しいおっさんが映画を見て咽び泣く。その姿を想像するだけで鳥肌ものだ。実際にそうなったのだから愈々手の施しようが無い。しかし、この作品を見ればどんなに高みの見物をしている傲慢ちきも、言うなればブルジュハリファの最上階から見下すアラブの石油王でさえ視聴後には涙せずにはいられない。
やあこちらの世界へようこそ。
現代日本は命を賭して散って逝った同胞の屍の上に成り立っている。特攻隊を初め、御上の命令に従い本邦の為にとその身を捧げた人間がいたのだ。だからこそ我々は毎日を慈しみ平和に暮らせていることに感謝せねばならない。先人たちのことを思えばこそ、1秒たりとも無駄にできる日など無いのだ。
しかし我々は忘れる。社会の荒波に揉まれ自分をよく見失う。間違い絶望し、そこから立ち上がる人もいれば命を捨てる人もいる。
我々は弱い。だから明日を生きる希望が必要だ。それは密かな楽しみであっても良い。明日を生きようと思えるものは須く希望と呼んで良いと私は思う。
希望。老若男女問わず知られている言葉。それが意味するところを立ち止まって考えたことなどこれまでにあっただろうか。軽々しく、あまりに軽々しく使っていやしなかっただろうか。
希望は呪いでもある。希望にはそうあって欲しいと思う願望が込められている。それが現実的には成就し得ないとわかっていても、まるで暗示をかけるかのように我々は希望を持ち続ける。
それは一種のお守りだ。お守りは持っているだけでは何かが起こるわけではない。だが持っているだけで何か御利益があるのではないか、安心できるのではないか、そう考えてしまう。
要はマインドの問題だ。希望もそれに近い。
人間は弱い。だからお守りのようなものを持って心を平穏にしておきたい。希望はお守りなのだ。
希望を捨てれば人は死ぬ。だから新しい希望の火種を植え付けた『ラーゲリより愛を込めて』は後世に語り継いでいくべき良作なのだ。
この火種を大きな炎へと燃え上がらせることができるか否かは、今を生きる我々次第だ。