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「考えない幸せ」を考える

 私は「考える」ことで自我を保ってきた。

 子どもの頃から思考するのが好きではあった。
 しかし、考えて考えて、得たものは哲学のようなもの。

 そんな私の考えは簡単には理解されない。理解してほしいわけでもない。
 だからこそ、こんな俗世で暮らしていたら考えたことを忘れてしまいそうで、自分が自分でなくなってしまいそうで、それが嫌でずっとずっと考えて、私の中の哲学を保ってきた。

 でも、とある出来事からふと思ったんだ。考えない方が幸せのではないかと。

 という訳で、「考えない幸せ」を考える(一行矛盾)。


 つい先日のことだ。最近の私は昔と比べれば精神面で安定しており、少なくとも傍からみれば普通の生活を送っているように見えると思う。しかしふと自分の書いたnoteの記事を遡っていた時にふと思ってしまった。

「あれ……この時の自分ってどこに行っちゃったんだろう……」

「この時の自分」とはnoteを書き始めた時の自分。おそらく高校二年生の時の自分。ぶっちゃけ病み散らかしていたし、精神科に通う前であったということもあり、ずっとずっと苦しみが続くと思っていた。

 思っていた……のに。

 あの時に少し間違えれば動かなくなっていたかもしれないこの身体は、今、脈々と動いている。

「病み」。それは私の原点。それをフラッシュバックのように思い出した私は、本当の自分を忘れてしまっていた気がして、涙を流してしまった。

 別に病んでいたい訳ではないのだ。病むことなく健康に一生を終えられれば一番だろうし、もっと言えば生きていて楽しい人生であれば最高だと思う。

 でも、私は、精神科で貰った薬だとか、そんな化学的で科学的なものに自分自身を変えられてしまった気がして、とてもとても苦しくなった。

 私は考える。考える。終わりのない堂々巡り、山手線の路線みたいな思考回路を起動させて、思いにふけっていく。

 でも、私はそんな思考回路から抜け出すことができるようになっていた。……多分、これも薬の力。

 だから、いや、だからこそ、冷静になって考えてみた。「なぜ私は考えることに固執してしまうのだろうか?」と。

 これが、シンプルな理由だった。冒頭で書いた、私の中の哲学。これを忘れちゃうのが、なくなっちゃうのが怖くて、ずっと考えてきたのだなと。

 考えることをやめてしまえば、私は何者でもなくなってしまう。まあ、元々何者でもないのだけれど、俗世に当然のように順応した人間に私はなりたくなかった。

 だからこそ、考えなくなるというのは自分の死かもしれない。考えなくなった時点で私は死んだのと同然なのかもしれない。そんな思いがあったからこそ、こんなことを続けてきたのかもしれない。

 幸いにも、私にはこの件について相談できる人が二人いた。一人はネットで知り合ったちょっと年上のフレンド。もう一人は精神科の先生。

 まあ、私はどんなに信用できる人の言葉でも鵜呑みにしないタイプなので、結局自分の結論は自分で出すことになるのだけれど。

「薬を飲む前の私ってどこに行ってしまったと思う?」という趣旨の問いを二人に投げかけてみた。

 一人目……急にこんな話をしてしまっても当然相手は困っちゃう訳で、色々な話をしていたけれど、そういう話の流れになったから聞いてみた。このフレンドには昔の自分を忘れるのが怖いみたいな話もしたっけな。そうしたらこんな言葉を返してくれた。

「どんなに時間が経っても、薬を飲んでも、君は君。君であることは変わらないし、昔の自分を忘れるなんてそんなことないと思うよ」と。

 何だか、その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなって、涙が出てきてしまって。あの時は大してノイキャンしてもらえないイヤホンで、大してノイキャンしてもらえないLINEで話していたため、多分泣いてるのバレちゃったんじゃないかなぁと思う。ちなみに相談を受けることを本職にしているような人以外にこんな話をきちんとしたのは初めてだったために、すごく嬉しくなってしまった。安易な人間。

 そして二人目。先生と話したのはフレンドと話した翌日だった。これはたまたまその日に病院の予約が入っていたからであって、ある意味ベストタイミングだった。

 大体最後に、「何か気になることや不明な点はありますか?」と聞いてくれるので、その時に、「薬を飲む前の自分ってどこに行っちゃったんですかね?」と、聞いてしまった。薬を出している人に。理不尽な話だ。

 先生には、こんな話をされた。

「僕は自我は移り変わるものだと思っています。例えば今の自分と一秒前の自分。体感では何も変わっていないように見えても、間違いなく物質的には異なっているわけです。薬を飲む前の自分というのは、その時間が長くなっただけで、あなたがあなたであることは変わらないし、自我に変化があっただけだと思いますよ」と。

 あとは、そういう答えのないものとか、歴代の偉人たちが考えに考えても答えを導き出せなかったものについては、考えない方が幸せなこともあると思いますよ。とのことだった。

 何だか二人ともに似たようなことを言われてしまって、妙な納得感を感じてしまった。特にフレンドのことは大好きだし、先生ともかれこれ一年半ぐらい付き合いがあるわけだから、尚更だった。

 それに考えない方が幸せなこともあるという言葉、これには完全同意だった。だって、考えなければ嫌なことを認識しなくて済むし、究極的に、私が長いこと考えていた、「死んで何も感じなくなったり考えなくなったりしたら幸せなのに」ということにも繋がるから。

 そこで、思ったことがあった。

 どんなに時が経っても、薬を飲んでも、私がずっと私であり続けるのであれば、考える必要なんてなくない……?と。

 幸せで、私が私で、性格の変化があるのは当然のことで。
 幸いにも私には(クオリティはともかくとして)感情を文章に残す技術があるわけだし。

 こんなことを言ったら自分自身の否定になってしまいそうだけれど、考えるのって何だか馬鹿馬鹿しいな~だなんて思ってしまった。

 まあ、別に考えることをキッパリやめたいだなんて思っていないし、元々のよ~く物事を考える性格って二十年以上こんなだからすぐ変わるものじゃないけど、ちょっとでも楽観的に過ごしていきたいなと思った。というか考えた。

 という訳でまだまだ先は長そうなような。

 たまにさ、年上の人と話すと言われることがあるんだ。「君はまだ若いよ」って。
 これって別に子どもっぽいとか言いたい訳じゃなくて、多分内容は違えど、今回の私の心境の変化みたいな、そんなことを色々経験してきたのだと思う。

 そう思うと、今まで話してきた色んな人が何だか輝いてみえるような、そんな気がした。

 考えることを辞めたら哲学が無くなっちゃうんじゃないかって思っていたけれど、これもまた哲学。人間って本当に奥が深い。

 だからこそ考えたくなるんだけどね。一旦考えるのは程々にして、しばらく生活してみようかなだなんて思っている。

 学校のレポート以外で久々にちゃんと文字書いたや。

 このnoteを読んでくれた皆様に、幸多からんことを。

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