読書
読書感想文。
何のためにあるんだろう?
小学生の時はきっと、「読まなければいけない本」を読んだ証として必要なものだった。
大人になっては何のためだろう?日々記憶力の衰える自分のための備忘録だろうか。
それでも結局は忘れることの方が多いのだが。
鬱の時は本が読めない。
集中力、気力が足りなくなる。そもそも興味と言うエネルギーがない。
長編は無理だが、短め(ハードカバーで1cm~2cmくらい)なら読めるほどになってきた。
読書は原則朝の電車でと決めている。人の多い所が更に苦手になった私は少し遅れて出勤をする。さらに始発の各駅停車に乗る。
朝のラッシュとは基本的に無縁である。始発だから必ず座れる。
ぼんやりも悪くないが、そこで数十分の読書が心地よい。
一時は電子書籍を使っていたが、結局読み放題と言っても読みたいと思う本は有料だったり、お勧めに出る本がやたらと偏ってくるのが嫌で止めた。
同じ無料なら近くの図書館が良い。
借り方は、今日はア~カの棚と決め、タイトルから惹かれる物を選び文体だけチェックをする。内容は読まない。
お気に入りの森見登美彦さんや、乙一さんは指名もあるが基本的にはランダムにする。
当然当たりはずれがあり、途中で止める時もある。
それはそれで、自分の嫌いな物を再認識する作業と思ってる。
そんな「嫌い」も発見できるのが読書だとも思う。
前に電車内で小説を読む女性の美しさに触れたことがあるが、自分はどうなのだろう?集中して読むタイプだからきっと怖い人に見えるだろうな。
大して難しい本は読んでないけれど。
やはり電車内で本を読む人がいると、ついつい目が向いてしまう。
資格の本、語学、小説、ジャンルは様々だがおっさんとしてはやはりスマホで漫画を読む人より男女問わず魅力的に思える。
漫画が悪いとも思わない。
もう一つの文化の領域だし、アートだ。日本が世界に誇れる物の一つだ。
本で育った世代の老害感覚。
私は本のコレクションに興味がない。
そもそも再読することがほとんどないからだ。あるとしてもその機会は数年から10年単位で先の話。そのあるかないか分からない機会のために溜めていると家のスペースがなくなる。その保管代を考えてもどうしても読みたければ再度購入する。
なので、買った本はもったいないと思いながらも読了後即ゴミ箱行きだ。
図書館がもっと気軽に引き取ってくれればいいのだが。
図書館にも要望がある。
ハードカバーは全て帯がついていないので、中身が分からない。
小説版は裏表紙にあらすじがあって、どんな本なのか分かりやすい。
多読を目指すならありとあらゆる本に当たってみるのがいいと思うが、今日はこんなのが良い、と気分が決まっている時は困る。
時間もかかる。
そこで、市民からあらすじ書きボランティアを募ったらどうだろうか?
採用された人も嬉しいし、もっと読もうと思う。借りる人もそのあらすじが魅力的ならそれを共有したいと思って借りる。
そして、選択時の時短にもなって現役の世代にもメリットがある。
読むときにも精読するようになるし、もし時間のあるお年寄りなら採用されるように短文にまとめる作業はきっとやりがいにもなるし頭も使う。
私にはメリットしか浮かばないのだが・・・
と、書いているが私は本が全てではないと思っている。
何なら実体験に勝るものはないとまで思っている。体験こそ至上。
疑似体験に近く、あり得ない世界を想像できるのが本。
知識を留め、共有し発展する種が本。
活字が正しいとは限らない。
それは動画であっても同じ。自分が感じた、見た触れた、それがそれぞれの正しさであることは不変だ。
参考にはなるが、内容がそのまま世界の正義ではない。
どんな美しい写真集を見ても、その場で感じる体験には勝てない。
どんな詳細に書かれた小説も自分が感じることと必ず違う。
例えば三島由紀夫が金閣寺の中で、その美しさを何度も言葉を変え見方と美しさの表現を変え、言葉を重ねて述べたとしても伝わり切らない。だから何度も何度ももどかしくて美しさを伝えようとしたのではないだろうか?
人によっては小学生の修学旅行で見た金閣寺の美が全てではないだろうか?
文字、本は人類の火を扱う次くらいに素晴らしい発見と文化だと思う。
液晶画面となっても根本は同じだ。なくなる事はない。
こうやって後世に何の役にも立たないこの文章ですら、残せるのだから。