できなくなることをどう受け入れて、挑戦しつづけていくのか。(映画「ライフ・イズ・クライミング!」)【モロッコ】
人生で初めて、映画の初日舞台挨拶に行った。
Twitterで見かけてずっと見たかった映画で、
初日舞台挨拶のツイートを見つけて、当日思わずチケットを買ったのだ。
特に気になった2つをメモのように書いておく。
<以下、ネタバレあり>
文字通り命を預けて、相手を信じること。
全盲のクライマー・コバさんは、クライミングをするときに、
視覚ガイドであるナオヤさんの声と、自身の身体を頼りに進んでいく。
ナオヤさんは、後方からあらゆるリスクを考えながら、
力強い、温かく、身体も心も後押しするような声掛けをしていた。
ぎりぎりの命を懸けるような状況の中、
どのことばをどのように伝えるのかもきっと大切な中で、
ナオヤさんの声の勢い、トーン、ことば選び、テンション、ことばの間…
そういった味のある生の声だからこその力があるのだなあと感じた。
そして、ナオヤさんの声を聴きながら歩みを進めるコバさんが力強い。
映画の最後、フィッシャーズタワーズを登り切った場面で、
震えるような感覚と共に、
雄大な景色と、クライミングを成し遂げたコバさんの誇り、
ナオヤさんをはじめとした応援していたすべての人たちの安堵や感動に、
心が震えた。
そんな二人の関係が、どのように積み重ねられていったのかが気になった。
文字通り相手の声を信じて命を預けるとは、どういうことなのだろう?
しかも、コバさんが一方的に預ける形になるという関係性に、
コバさん自身はどう思っていたのだろう、とふと感じた。
「税金を納め続けたい」
様々な場面の中で、私が一番こころが揺れたのは、
コバさんと、大切なご友人の西山さんとの会話のシーンだったかもしれない。
コバさんの大切なご友人の西山清文さんという方が出てくる。
映像で出た際は、寝たきりの状態で、脊髄小脳変性症という病気の方だった。
その中で、西山さんが発した「税金を納め続けたい」ということばが、
自分の中に深く刺さったのだった。
寝たきりで複数のチューブがつながれた状態で、周りは終末期医療を迎える心づもりの人が多い中、西山さんが「社会復帰したい」という気持ちでいることに、素直に私は驚いた。
病気になると、できなくなることが増えていく。
自分が複数のチューブにつながれた時、自分が自分でなくなる感覚や、
不自由さ、はがゆさを感じたことを覚えている。
今の私は、税金が絡まる仕事をし、自身も税金に助けられる中で、
「はたらく」と「生きる」のバランスに、迷っている。
これまで飄々とクライミングをする超人のように思えていたコバさんの姿が、
これからのことを考えて西山さんと一緒に泣いたというエピソードに、
とても人間味を感じたのだ。
「社会復帰したい」と思う社会とはなんなのだろう。
「社会復帰」とは、何を指すのだろうか。
どうして「税金を納め続けたい」と思えるのだろう。
どう生きてきたら、そう思えるのだろうか?
その後、エピローグでは、奇跡的に回復し、企業のようなところで働かれている姿が映されていた。
「生きる」ことを、それだけでなく「楽しむこと」をあきらめない、
西山さんとコバさんの会話や姿勢も、
私の心を静かに、けれども大きく揺り動かしたのだった。
映画を見ようと思ったきっかけ:モロッコでのクライミング
私がこの映画を観ようと思ったのは、
まさに「クライミングは人生だ」と思ったモロッコでのクライミング体験があったからだ。
人生初めてのクライミングは、モロッコのある地方だった。
こんなところ登れるわけがないと、呆然と崖を上から下まで眺めて、
「やっぱりやめたい」と何度言おうと思って、ガイドの人を振り向いたか。
登り始めてから感じたのは、頂上を目指して進むのは、自分の手と足しかない。
無理と思っても、自分の手足を動かさないと、目的地には進めない。
それでも、のぼるところには鉄の楔が打たれていて、誰かが道をつくってくれたことがわかる。
初めて登るときは、「もうこんなところ無理だよ」と思いながらも、
2回目にのぼるときは、初めての時よりもずっと楽に登れている。
登りながら、「クライミングって、人生みたいだなあ」と強く思ったことを覚えており、10年近く経った今でも、モロッコの思い出としてふっと思い出すのだ。
この映画を観て、「全盲クライマーと、支える視覚ガイド」というよりも、
「楽しい」と言いながら、
お互いを信頼しながらクライミングを続けるコバさんとナオヤさんに、
「人生も楽しいことを求めていこう」「ライフイズクライミング」と、
前よりもふっと身軽に人生を捉えられる気がしたのだった。
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