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お待ちかねの仏像!江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』中巻を訳してみた~第4回(全6回)
前回の第3回では「笠」に特化した山東京伝の考証でした。日本人の考え方が反映された驚くべき真実が判明し、なかなか感慨深い内容だったと思います。今回はようやく仏像に関するものが登場します。ですが、まず上巻の最終回で取り上げた「浮世袋」の再考から始まりますので、まだご覧になっていない方は、ぜひ上巻第4回もどうぞ!(これは考証随筆で、全文が訳したものです)
1.浮世袋再考
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77442226/picture_pc_a4eeb2bfed4b63a407a43f43c8ef44f9.jpg?width=1200)
『沙金袋』(山本西武撰、明暦万治の頃刻)
「底たたく 浮世袋や 年の暮」
この句をもって再び考えてみた。
浮世袋は巾着の類だろう。
『秋斎間語』に「昔、太刀につけた火打袋を
三角に縫ったので、紙子※に火打ちの名がある」
※紙子=紙で作った衣服
この説によれば、三角に縫った火打袋もあった
ということだ。浮世袋も三角に縫った火打袋の
名残で、浮世狂いする輩はもっぱらこれを携えた
ので、こう名付けられたと思われる。
『卵子酒』(宝永六年著)巻の三、
昔、九軒町※が繁昌したことを語るくだりに、
禿※が浮世巾着という物を持って歩く理由が
記されている。これも浮世袋と同じもので、
後にそのようにも呼ばれたようだ。
※九軒町=大阪新町遊郭にあった揚屋町
※禿=遊女見習いの少女
昔、遊女の家の暖簾に浮世袋をつけた
というのは、この図のような暖簾の縫い留めに
紫革で三角の形の物をつけたものが、
浮世袋の形に似ているからというのも、
そうしたいわれかもしれない。
古画にも、こうした暖簾が描かれているものが
あるようで、堺の乳守※では最近まで
暖簾の縫い留めに紫革をつけていたそうだ。
※乳守=堺にあった遊里
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77462301/picture_pc_b7b5d57548f9ccf1c68789fbf9cb3dbb.jpg?width=1200)
『本朝俗諺志』(延享四年印本)巻の二、
「今、傾城町※の暖簾に紫の乳を
つけることは乳守以外にない」と見られるので、
延享頃まであったということだろう。
※傾城町=遊女屋の集まった町、遊里
また、少女が針仕事を習うために、自ら縫って
遊び道具にしたり、もしくは、粟嶋(淡島)の
神※に手向ける三角のものを浮世袋というのも
その形に似ているからだろう。
※粟嶋(淡島)の神=針供養、婦人病祈願など
女性に関する供養の神様
また、遊女遊びをすることを浮世狂いという
のは、慶安・明暦・元禄頃までもあったようだ。
『吾吟我集』(慶安二年未得著)序の文に
「商人で良い衣を着て浮世狂いの小唄好きを
いわば雪仏の水遊びをしたごとく」とある。
『新続犬筑波』
「七夕 つまむかふ船路はうき世狂いかな」
『俳諧糸屑』(元禄七年印本)恋の部でも、
「憂世狂、憂世名」という言葉が見られる。
これらはその証といえるだろう。
なお、推測すると、昔はすべて今風のことを浮世
といっていたようだ。これも古い時代のことか。
狂言で禁ずることを言うのに、舅の言葉で
「やい鍛冶や、婿どのは浮世人にじゃによって」
とあり、これは今どきの人という意味である。
岩佐氏を浮世又兵衛※というのも、今風の人物を
描いたからだろうか。
※浮世又兵衛=江戸初期の絵師、岩佐又兵衛の
こと。作品は浮世絵の源流と
いわれる。
また、思うところ、貞享頃に書かれた本に、
浮世笠という言葉が見られる。
さらに『雍州府志』(貞享元年)には、
浮世御座という言葉も出てくる。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77514683/picture_pc_a613dbfadeae5b5584d5c748fa775a7a.jpg?width=1200)
江戸室町の横丁を浮世小路というのも、昔
浮世笠・浮世御座などが主にここで売られて
いたため、この名が残ったのではないだろうか。
今もそういう商人がいるのだから、
きっとそうなのだろう。
2.魚板の古製
文明時代(室町時代)の酒食論という画巻や
寛永時代の絵に、この魚板を見ることが
できる。これは正式なものではないのだが、
魚板の一種の古いものである。
今も京都の旧家で稀に見られることがある。
物好きな人は文台※などにするために
持っていたそうだ。
※文台=書籍やすずり箱を載せるための
机状の台のこと。
また、甲州の民家では今もこれが使われている。
表面で魚類を切り、裏面で野菜類を切るという、
便利なものと聞く。
3.大津絵の仏像
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77527758/picture_pc_76fdd9d9d335023c859c17a110dffe8e.jpg?width=1200)
元禄四年、芭蕉が粟津※の無名庵にいたとき、
正月四日に
大津絵の 筆のはじめは 何仏
このように口ずさんだというから、思うに、古く
は仏像を描くことを主としたことを知るべし。
※粟津=滋賀県大津市南部の地名
当時大津絵の仏を持仏として掛け軸にする者が
たくさんいたので、自然と仏絵が多く描かれ、
戯画※は遠慮されるようになったが、
当時次のような句があった。
※戯画=いたずらに書かれた絵
『俳諧日本国』(元禄十六年印本)杏花園蔵本
<前句> 暮れてぽつぽつ薪割る家
<附句> 追分の絵仏に後世を打ち任せ
<前句不知>大津絵に廻向してゆく鉢たたき
『本朝諸士百家記』(宝永五年印本)巻の八に
「大坂長町七丁目に団扇屋善三郎という
者がいた。この者の裏店に鼠関とかいう
七十いくつの老法師がいて
<中略>
半畳ほどの棚を吊って大津絵の三尊をかけ
一首ほめたたえ、次のように詠んだ。
絵にかくも木にきざめるも弥陀は弥陀
未来のことはかつてたのまぬ
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77530490/picture_pc_9f7dc47ac1c2d2700243c0631b6cf2a2.jpg?width=1200)
また、享保十一年、竹田出雲※の作に
「伊勢平氏年々鑑」という浄瑠璃に大津絵の
十三仏というものが見られるが、宝永頃までも
その仏絵が使われ、享保頃まで世に散在したもの
だけれど、今は無くなり見ることもなくなった。
※竹田出雲=江戸中期の浄瑠璃作者
たまたま、ある人が所有していたものを写して
後に描いてみた。ただし、今も大津に
仏絵がないわけではないけれども、
昔のものとは大きく異なっている。
ちなみに『一代男』(天和二年印本)詞花堂蔵本
巻の三、寺泊※の傀儡師の家を語るくだりに
「屏風の押絵を見れば、
頭のもたげた花・吉野参りの人形・
板木押の弘法大師・鼠の嫁入り・
鎌倉団右衛門・多門座左衛門の下男。
これみな大津追分で描かれたもので、
見ると都が懐かしく思う」とあれば、
天和頃は戯子絵も描かれたと思われる。
※寺泊=新潟県長岡市寺泊
また、『五ケの津の草紙』(刻板の年号は詳しく
わからないが、推測すると天和貞享頃だろう)
巻の四に
「龍虎梅竹左字に出ている枕屏風追分絵の奴が
露の命を君にくれてやろうと、赤い丹に出た
ところを見て」とあり、これらを思うに、
今でも昔を失っていないものは大津絵である。
(仏絵のみ昔を失う)
塗笠をかぶる女性が藤の花を担ぐ姿も昔の様子
なので、塗傘の項を考えてみよう。
(また、産着の箔紋や食い初め椀の鶴亀、
羽子板の殿様、神様の絵なども、昔を失わず)
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77579603/picture_pc_1958a61f194a96198199ac6ace419737.jpg?width=1200)
<大津絵の仏像縮図>
総長曲尺一尺七寸(51.1cm)
広さ七寸五分強(28.5cm)
頭と両手は木に彫って印をし、外は筆で描いた。
衣は薄墨、輪・後光・蓮華座は丹、蓮華は藍。
一枚の紙に上下もしくは中。一文字。
風帯の形を彩色に仕分けて掛軸にしたもの。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77580671/picture_pc_4f32dd4c930f6b4e606bb87e2398ed9f.jpg?width=1200)
<大津絵三尊来迎仏>
衣は黄土、輪・後光は丹、蓮華は丹緑青、
雲は朱墨。寸尺おおむね前のものと同じ。
先の『諸士百家記』に見られる鼠関とやらが
狂歌で詠った三尊仏もこの類だろう。
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77591291/picture_pc_bc2c91f4d83d67295336bdf930c50941.jpg?width=1200)
元禄三年印本『東海道分間』※絵図』所載
※分間=測量
大谷の所に仏絵がいろいろ有と記されている。
芭蕉の大津絵の句は元禄四年なので、わずか
一年先の板行である。当時の面影を目に
浮べると、なんとなく新鮮だ。
4.浅葱椀
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77591451/picture_pc_e9b958fdcedb96a5a67fd6180083e4bd.jpg?width=1200)
昔、浅葱椀というものがあった。
『尤之双紙』(慶安二年印本)巻の上で
青い物品々を語るくだりに
「緑青の絵の足打※、青漆の椀、浅葱御器」
とあれば、慶安頃にはすでに
存在していたものである。
※足打=足つきの道具
『雍州府志』(貞享元年著、同三年上梓)
土産門の項に「二条の南北新町製する所、
縹椀という。黒漆の上、縹色ならびに
赤白の漆を以って花鳥を描く」
(原書漢文、今仮名書きとする)
これがその証だということを知るべし。
『二代男』(貞享元年印本)巻の四
裕福な者のことをいうくだりに、
「京から妾を呼んで、静かな向島の下屋敷に
二百人分の浅葱椀、三町ばかり牡丹畑を拵え、
自分は自由に花車に乗っていた。
鼻も人にかませて、月代※も寝ている
間に剃らせ」とあり、浅葱椀は
下品な器ではないようだ。
※月代=成人男性の髪型
『俳諧糸屑』(元禄七年印本)にも浅葱椀が
出てくるので、当時もっぱら使われた器
ということだろう。
『晋子十七回』(淡々著、享保八年刻)
<前句>子にふんどしを たのむまで生き
<附句>名にも似ず 好きこそ出れ 浅葱椀
『御伽名題紙衣』(元文三年印本)巻の二に
浅葱椀のことが見られるが、
元文頃まであったということか。
今は無くなって名前すらも聞かなくなったが、
これだけではなく、昔は頻繁に使われた器でも
今は廃れて無くなったものはたくさん多い。
【たまむしのあとがき】
大津絵とはなんぞやと、かねてから思っていたのですが、そのまんま、滋賀県大津市名産の絵だそうです。
初期の頃の大津絵は、ここでも取り上げられているように、仏画が多かったようなのですが、次第に変化していって、「民族絵」で人気が定着したようです。
今、大津絵で調べてみると、代表的なものが「鬼の念仏」「藤娘」というものらしく、特に「鬼の念仏」はユーモラスな画風のものがたくさん出てきて、ぜひ自分も欲しい!と思ってしまうほど気に入ってしまいました。
今後手に入れたい、お気に入りアイテムのひとつに、加えたいと思います。
ところで、最後の浅葱椀の浅葱という漢字ですが、「浅葱」を調べると、濃いめの水色なのです。
ところが、同じあさぎでも「浅黄」という漢字も使われるらしく、こちらで調べてみると、薄い黄色なのです。
でも、あさぎ色というのは「浅葱」でも「浅黄」でもどちらの漢字を使ってもOKなのですよ。
これはどういったことかというと、濃い水色を表す「浅葱」のことを、漢字で「浅黄」と慣用的に使うのは構わないが、「浅黄色」というのはあくまでも、薄い黄色である、ということのようです。
そもそも違う色なら、使っちゃダメでしょ!と言いたいですが、昔はそれだけおおらかだったということなんでしょうかね(笑)
まぁまぁ、そんなそんなで、文中の「浅葱」も「浅黄」と書かれている箇所がいくつもありましたが、紛らわしいので、題名にある「浅葱」にすべて統一させていただきました。