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006_「言語で思考し続ける力」と「原理を理解する力」


原理とは何か

前稿で「言語で思考し続ける力」を構成する力は「論理を理解する力」の他にもあると述べましたが、本稿では「言語で思考し続ける力」を構成するもう一つの大切な力としての「原理を理解する力」というものについて、私なりの考えを述べてみたいと思います。

まず、この「原理」については、かの哲人皇帝マルクス・アウレリウスが、

このものはそれ自体、その固有な構成においてなんであるか。

マルクス・アウレリウス/神谷美恵子訳『自省録』p145,岩波書店

というように、その定義を表現していますが、ここでは「あらゆる事象をそのようなものとして成立せしめている根源的な規則」と定義しておきます。

例えば、国家の権力が立法権、行政権、司法権に分立されている事象について、これをそのようなものとして成立させている根源的な規則は「ただ一つの権力を単一機関に集中させると、その濫用により国民の利益が侵害されやすくなるため、権力は別々の機関に分立帰属させ、各機関に均衡と抑制の関係を齎すことで国民の利益を保護すべきである」と説明され、この根源的な規則は「権力分立の原理」と呼ばれています。

また、水面の一点を中心に円形の波が次々と伝播していく事象について、これをそのようなものとして成立させている根源的な規則は、「波面の各点から球面波(素元波)が放出され、それらが重ね合わさり、素元波の包絡面が新たな波面を作っていく」と説明され、この根源的な規則は「ホイヘンスの原理」と呼ばれています。

では、このような「原理を理解する力」を「言語で思考し続ける力」を構成する力として考えるのはなぜか。それは「言語で思考し続ける」営為の主たる目的は、様々な事象の構造を理解することにあるからです。すなわち、事象の構造を理解することとは、換言すれば、その構造を成立せしめている根源的な規則——すなわち原理——を理解することであり、したがって「言語で思考し続ける力」とは「言語で思考し続け、原理を理解する力」と言い表すことができるからです。

なぜ原理が大切であるのか

次に「原理を理解する力」がなぜ大切であるのかを考えると、それは、この力は、人がその生において当面するあらゆる問題をその根底から考え抜き、その問題に対する最適解を導くために不可欠の力であるから、です。

学生であれば、学習の過程で解答すべき問題、経営者であれば、経済活動上で生起する問題、そして遍く人間であれば、様々な局面においていかに生きていくかという問題。我々が、これらの日々対峙する問題に対し、自身にとって最も適切な解決を導くためには、今、対峙している問題の構造はどのようなものであるのか、その構造を成立せしめている根源的規則としての「原理」は何であるのかを推論した上で、その原理からすれば、どのような判断をするのが妥当であるかを決断することが必要になります。

例えば、経営者が、自社の経営状態は良好であるにもかかわらず、優れた人材が次々と流失し続けるという問題に直面しているとしましょう。このような場合において、当該の経営者は、社員が企業を自発的に辞めていく原理は何であるかを考え続けた結果、「組織の構成員は自身の活動に対し、組織側の公正な評価が著しく欠如していると認識すれば、自発的に辞めていく蓋然性が高い」という原理を仮説としてでも見出したときには、現行の人事評価システムを見直し、それが公正な人材評価を行い得ないものであればそれを刷新することにより、当面の問題を根本から解決することができます。

この社会で生起するあらゆる事象は、構造として複数の階層を持っていると図式化して考えると、可視的な表層の領域から反射的に受ける印象や好悪感情を基準として対策を決定する程度では、悩ましい問題は変わらずに噴出し続けます。その噴出を原因から喰い止め、当該の問題自体の全き解消を図るためには、事象の全体構造を決定している「原理」が在る深層に至り着くまで、ダンテとウェルギリウスの如く言語で思考し続け降りゆき、原理をベアトリーチェの如く見出し理解した上で、その原理からいかなる解決策を導出可能かを考え出さなければなりません。

以上のように、原理を探究する必要性は、何よりも「生存における問題解決を実現する」ことにあります。願わくば、学校教育においては、原理までを理解しなければ、解答することのできないような良質な問題(前稿の表現では論理構造の把握を求める良質な問題としたもの)を学生たちにどんどん提供し「生存における問題解決を実現する」力の醸成を図って欲しいなどと思います(微力でありますが、自分でもこのような教育を提供してみたいと思っているこの頃です)。

原理を理解する力を培うためには

では、「原理を理解する力」をどのように培えば良いか。これが最大の論点となりますが、一つの方針として考え得るのは「事象を、それを構成する要素に分割した上で、それらの各構成要素間の『関係』がどのようになっているのかを、言語で思考し続けて探求する」という方針です。この「要素分割主義」とでもいう方針は、既にお分かりのように、近代科学のまさに「基本原理」となっていますが、この原理は科学にとどまることなく、私たちが、その生活において出会うあらゆる事象に対して適用することができると考えます。

因みに、このような要素分割主義は、西欧における近代科学勃興の1300年前に、中央アジアで生まれた仏教哲学の一派である「説一切有部」のアビダルマ(『法の体系』といわれるもの)にも見受けられますが、ここでは、現代社会を生き抜く力を論点としていますので、西欧由来の近代科学を基底として話を進めます。

それにしても、原理を探求するためのこの方針、どこかで聞いたような。そう、この方針を明確なテーゼとして掲げた最初の者とされているのが、17世紀に活動した数学者・哲学者であるルネ・デカルト(René Descartes)さんです。……やはり、いらっしゃいましたね。

デカルト——今の地球に深刻な影響を齎してしまっている科学という人間中心主義的な方法の生みの親玉とか言われるから、あまり姿を現したくはなかったよ。しかしさ、なにもこの大地を汚しても人間が繁栄すべきだなんて考えたことすらないことくらいわかるはずなのに。というよりもむしろ、君の言うように、苛烈な生存競争が有史以来続いて、これからさらに加速していくであろう人類社会において、誰もが、その境遇の如何にかかわらず、全ての人間に等しく賦与されている頭脳一つで、より善く生き抜いていくために実践できる方法とか、随分イイこと言ってるだろ? ん?

——ふふ、そうですね、デカルトさん。現代に人類が直面している課題のすべての濫觴があなただ、なんていう極論は、冗談にしても無意味なユーモアです。そうだ、折角お越しいただいたんですから、失礼ながら「汚名」を挽回する絶好の機会です。改めて、現代では本当に多くの国で知られるようになっているあなたの著書『方法序説』——正確に述べないといけないというお顔をされていますので正確に言いますと『私の理性を正しく導き、諸学問における真理を探求するための方法の序説、そしてこの方法の試みとしての屈折光学、気象学、幾何学』——という著書でしたためられている「4つの規則」を、もう一度、皆さんにお伝えいただければ、私も本当に嬉しいのですが。今ちょうど、あらゆる事象の根源に在る原理原則というものは、どのように認識すべきであるかという難題について、私がたどたどしく、七顛八倒して皆さんに話していたところなんです。いやぁ、よかった。では、どうぞよろしく。

デカルト——ふ〜ん、あの論文の序説で述べた着想が、それほど多くの人々に膾炙していたとはね(けっこう得意気)。よろしい。では、君の提示していた主題に沿って、改めて喋ってみるとだな……私は、あらゆる事象についての真の認識に到達するための真の方法として、次の4段階に分けることのできる規則を構築してみた。このようにだ。

第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意深く速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つをできるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。

そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落とさなかったと確信すること。

ルネ・デカルト/谷川多佳子訳『方法序説』p28-29,岩波書店

——とまあ、こんなところだ。どうよ?

——うん、やっぱり流石です。この規則に従って事象の構造を探求していくと、おのずから原理原則が姿を現すという希望が持てます。

言語で問い続ける。故に、言語で思考し続ける我あり。

——さらに言えば、事象の構造、そしてそれを成立せしめている原理原則を探求するために何よりも大切であるのは「健全に問い続ける」という心構えというか精神ではなかろうかと思います。人間は脆弱ですから、苦境に陥ってしまうと、すぐに疑心暗鬼に陥り、他者と社会に責任を転嫁し始めてしまう。しかしそうすると、その人の生は、卑小で悲しむべきものになってしまいます。これに対して、いかなる逆境に陥ろうとも、精神を奮い起こして健やかで瑞々しい好奇心を保つ努力をし、万象に対して「それはどういうことだろう」と言語を駆使して健全に問い続けると、本当の意味で愉しい人生になると思う。上手く言えないけど。

デカルト——ハハッ、そういうことだな。君の流儀に付き合えば「言語で問い続ける。故に、言語で思考し続ける我あり」ということだ。どうよ?

——デカルトさん、改めて惚れ直しました。

すみません。ずいぶん、妄想が広がってしまいました。この「言語で思考し続ける力」を構成する力としての「原理を理解する力」に関しては、まだまだ述べたいことが山積みなのですが、まずはここまでとし、次稿では「言語で思考し続ける力」を構成するさらにもう一つの力「可能性を想起する力」について述べようと思います。


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