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茶湯から茶道への歴史と流派

茶道は元来、茶湯(さのゆ、ちゃのゆ)と呼ばれていたようです。

千利休は「数寄道」
古田織部は「茶湯」
小堀遠州は「茶の道」と呼び、江戸時代17世紀後半には茶道(さどう)と呼ばれるようになってきました。

表千家をはじめ多くの流派では「さどう」と読み、裏千家では「ちゃどう」と読むそうです。

千利休以前は流派というほどでは無いが、村田珠光による奈良流(ならりゅう)
室町時代の水墨画家能阿弥(のうあみ)による東山流(ひがしやまりゅう)
武野紹鴎による堺流 (さかいりゅう) などがありました。

村田珠光はその後珠光流(じゅこうりゅう)などを生み出したともされる。

現在にも続く流派は数多いが、

表千家裏千家武者小路千家の三千家をはじめ、宮中茶道の風早家(かぜはやけ)
宗旦四天王が開祖となる宗徧流(そうへんりゅう)、庸軒流(ようけんりゅう)、普斎流 (ふさいりゅう)。表千家の縁戚であり分派となる久田流(ひさだりゅう)、表千家六代覚々斎の門人の堀内流(ほりのうちりゅう)、 表千家六代覚々斎の門人の松尾流、表千家七代如心斎の門人の表千家看月庵(おもてせんけかんげつあん)などや、川上不白が開いた江戸千家、不白の門人による表千家不白流 (ふはくりゅう)、不白流石塚派や、雅流吉田生風庵速水流など。

江戸幕府三代将軍徳川家光の茶道指南役だった小堀遠州が開いた遠州流(えんしゅうりゅう)もいくつかの流派が派生しており、その他古田織部の織部流、古田織部の門人で千利休と兄弟弟子にあたる薮内剣仲による薮内流(やぶうちりゅ)。広島などに習われている方が多い印象の武家茶道は古田織部の門人による上田宗箇流の(うえだそうこりゅう) など書ききれないほど全国各地に広がりを持っています。これだけ多くの流派があるということは日本の歴史の中でお茶が愛されてきたと言うことなんだと思います。


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