緑のダムが森林ならば 地球のダムは何でしょう
「豊葦原の瑞穂の国」 葦がよく茂り稲が豊かに実る国
とは古事記や日本書紀に著される日本の美称。
水を豊かに湛えた草原は、古来より日本を代表する風景でした。
日本は古い国名を秋津嶋と言いますが、あきつとは蜻蛉の古名。トンボが多いということは湿地の多い場所。
日本の国生みにおいても、 伊邪那岐、伊邪那美の二神が、天沼矛 を渾沌に差し掻き起して島を生み出します。二神の初めてのこども水蛭子は不具であったため葦船に乗せて流されたとありますが、この情景として思い浮かぶのは果て無い沼沢地…。
どうやら日本は湿潤な草原に覆われた国だったようです。
地表の約6-15%を覆う湿原は、地球温暖化を抑制し、川の氾濫を防ぎ、水を浄化する機能を持っています。
たっぷりと水を蓄えた湿原は、大きなバスタブのように温度も一緒に溜め込んでいます。そのため水を十分に湛えた湿原は、広範な地域の気候を温暖に保つことができます。
豊かに蓄えられた水は、植生によって浄化され、ゆっくりと放出されていきます。湿原は地球にとって大きな自然のダムの役割を果たしているのです。
水辺に生息する植物が枯れた後、腐敗が進まないまま堆積すると「泥炭」となり、泥炭が積み重なって湿原が形作られていきます。
気温が低く水が溜まりやすい場所では、空気による酸化分解が進みにくく、分解にかかわる生物や微生物が少ないため、泥炭地が形成されやすいそうです。そのため、泥炭地は寒冷地に多くみられます。
「炭」という字が使われていますが、石炭などのように地中で高圧高温を受けて炭化したものではなく堆肥のように積まれたもので、乾かせば燃えるので、世界各地で燃料として使われています。
泥炭は燃料以外にも堆肥や良質の培養土として園芸用にも使われています。
ドイツやデンマークなどでは甜菜(サトウダイコン)の栽培に使われ、サトウキビの栽培ができない寒冷地では甜菜糖作りに利用されました。(今更ながら、あの極甘のGoldsaftの原料(Zuckerrüben)と気付く…)
他にも、ウィスキー製造では欠かすことのできない重要な役割を果たしています。麦芽の燻煙に用いられ、独特の香りと味を醸し出す泥炭はウィスキーのスモーキーフレーバーの決め手となります。
湿地は水が過剰にある「平地」であるため、人が増えれば水田、養魚場、塩田、溜池、水源地、ダム等へと転換されていきました。
さらに、現在は気候変動により湿原の消失や水質や水量の低下が進んでいます。
湿原には栄養分が少ないため大型の植物は育ちにくいのですが、人が立ち寄りが難しいため、古い時代からの種も多く生き残っているそうです。
鳥や動物も絶滅が危惧されるような希少種が生息しています。
このような状況から、1971年にイランのラムサールで、湿地を保存しその生態系や生物多様性を守ることを目的とした「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」、通称ラムサール条約が制定されました。
水辺に広がる人を寄せ付けない独特の自然風景。
湿原や湿地、荒野には伝説や事件が残される傍ら、文学や音楽にも少なからず影響を与えています。
マクベス(湿地の三人の魔女)、魔王(息子を連れ去るハンノキの王)、嵐が丘(ヒースの荒野湿原)etc.
低地ドイツには広く泥炭地が分布し、湿原も多かったようなのですが、18世紀以降急速に減少。そのせいか、泥炭地や湿原での物語はグリム童話には案外と少ないそうです。グリム兄弟が民間伝承を集め始めたのが19世紀初頭なので、泥炭地や湿地は既に減っていて、身近な話としてあまり残っていなかったのかもしれません。
とは言え… ドイツの童話の中でも実際にあった事件として記録が残されている「ハーメルンの笛吹き男」。子供たちの集団失踪に関しては人さらいや少年十字軍への連行といった説に加えて、山に向かった子供たちが山裾の沼地を通り抜けようとして、沼に呑まれてしまった…という説もあるそうです。
保護地区として整備されている場所が多くなったとは言え、水辺の不思議な世界を訪れる際は、くれぐれも足元にお気をつけ下さい。
参考文献:
湿原力 ― 神秘の大地とその未来
辻井 達一 著
2022年8月23日 処暑