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小説 桜ノ宮⑨

紗雪はとりあえず、広季への説明を先にすることにした。
「奥さん、エレベーター乗っていきましたよ」
「さっきの男と?」
「も、もちろん」
広季の呆けた顔を見て、思わず紗雪はどもってしまった。
両手で顔を覆い、広季は大きなため息をついた。
よほどショックなのだろう。
「帰ります」
肩を落としたまま、広季はホテルの出入り口へとトボトボと歩いていった。外側にすり減った靴のかかとが哀愁を誘う。
広季がホテルから出ていき、自動ドアが閉まるなり、紗雪は修と向き合った。
「修くん、どないしたん、こんなところで」
自分でも少し声が震えているのがわかった。
あまりいい別れ方をしていないからだろうか。
久しぶりに会う元・恋人と目を合わせようとしても視線が揺れてしまう。
そんな紗雪の気持ちを想像だにしていないのか、修が真っ直ぐに近づいてきた。
「潜入捜査だよ」
耳元でそっとささやく。
マスク越しだが、久々の優しい声だった。
今はホテルマンの格好をしているが、修の職業は刑事だ。
「え、そうなん?」
思わず紗雪の声もひそひそと小さくなる。
修は黙ってうなずいた。
「紗雪ちゃんは、何?さっきの人たちとどういう関係?」
修に質問されると取り調べを受けているような気持ちになる。
この感覚が懐かしくて少し可笑しかった。
紗雪はここに至るまでの内容をかいつまんで話した。
「へえ。そうなんや」
そう言ってから、修はエレベーターのほうを見た。
「さっきの人の奥さん、浮気かどうかはわからんよ」
「え?どういうこと?」
淡々と話す修に紗雪は食いかかった。
「あの女の人、時々、このホテルを利用してるんやけど、一緒に来る相手がいつも違う」
紗雪の迫力にのけぞりながら修は答えた。
「つまり、それは」
「そういうことが好きな病気か、そういうことを仕事にしている人か」
今度は紗雪がのけぞった。
「それ知ったら芦田さん、めっちゃショックや思うわー。あ、でも、中でほかのことしてるかもしれへんし」
前向きな意見を得意げに言い放つ紗雪を見下ろしたまま、修は首を傾げた。
「紗雪ちゃん、何で俺が潜入捜査してると思う?」
「わからへん」
「あんまり詳しいこと言われへんけど。紗雪ちゃんは夜鷹って知ってるか。時代小説とかに出てくる」
修は読書家で、紗雪と付き合っている時も時代物や歴史小説を好んで読んでいた。そのせいか、例えに古臭いものを持ってくることが度々あった。
「知らん」
「ほな、あとでググって。俺、仕事せなあかんから」
「わかった」
紗雪は拗ねた子供のように下唇を突き出して、出入り口へと向かった。
40を迎えた今も、元・恋人の前では子供のように振る舞ってしまう。
そんな自分に気づくや否や下唇を引っ込めた。
「紗雪ちゃん」
「何?」
紗雪は体を半分だけ修の方に向けた。
「お母さん、元気?」
「うん。施設に入ってるけど」
「施設。そうなんや」
マスクの上にある眼差しが翳る。
「ごめん。呼び止めて」
「別に。ほな仕事がんばって」
紗雪はホテルを出た。生暖かい夜風が流れていた。
あれから修は結婚したのだろうか。
引き返して聞いてみたいとまでは、さほど思わなかった。

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