【自己紹介】米屋に嫁いだ私の今までの話 ~結婚するまでの道のり~
note投稿始めて3日目、
今日は自分のことを書いてみようと思います。
初めての投稿、50以上の♡スキ♡がついて嬉しいです!ありがとうございます😊
私は矢作に生まれ育って27年、現在は2児の母です。ここまで来るのに大変だったことや嬉しかったことなど、『こんな人生もあるんだな〜』と思いながら読んでもらえたら嬉しいです。
●誕生から中学まで
私が誕生したのは、母が23歳、父が20歳の頃、矢作に誕生しました。
よく聞いたのは、髪が薄くて赤い服を着ていても男の子に間違われたって(笑)親の趣味で赤色のスカジャンを着させられてたな〜と写真を見るとよく思います。
小学3年生まで矢作西学区の市営住宅で暮らしていました。しかし、母親の度重なる問題行動に父は愛想をつかし、離婚してしまいます。
(本当はもっと書きたいけど、わかる人にはわかってしまうのでこの辺でw)
それからは北野学区にある母の実家で暮らすようになります。(また矢作かーい)
母の姉家族とも一緒に暮らしていたので、多い時は総勢11人と大家族になりました。
しかし母は、仕事も家事もなかなかできず、祖母にお世話になってばかりでした。その様子を見ていた私は、
《こんな大人にはなりたくない!》
と常に反面教師にしていました。
小学校、中学校と音楽が好きだった私は吹奏楽と合唱の部活に入り、音楽に溢れた生活を送ります。友達にも恵まれ、楽しい日々を過ごしました。
(といいつつ、本当は色々あった)
正直中学校は特に自分の黒歴史って感じです。でもきっとみんなそうだよね〜と言い聞かせています。
●高校、和太鼓部との出会い
高校受験を控えた中学3年の時、お金に余裕のない我が家では、『公立に行け』と言われ自分の学力に合う高校を探していました。
そんなある日、秋のお祭りで地元の神社に行った時、岡崎城西高校の和太鼓部の演奏を見て、超感動!!迫力がすごくて、目を輝かせて最後まで見ていました。
その演奏をきっかけに、家族を何とか説得して岡崎城西高校への入学を決意します‼️
入学後は即和太鼓部に入部し、3年間の和太鼓生活が始まります😊
この3年間は私にとって今でもかけがえのないもので、この3年間があったから今の自分がいると言っても過言じゃないくらいです。
3年の時にはフランスに2週間遠征に行き、素晴らしい経験をさせて頂きました!
●社会人時代
その後高校の斡旋で、一般企業に入社し6年間務めます。その間受付として4年間、広報担当として2年間務めたのち、産休育休2年取って米屋を手伝うため退職しました。
会社員時代も人に恵まれ、楽しい日々を送りました。仕事しに行ってるのか遊びに行ってるのか分からないくらいみんな仲良くて、毎日楽しかったです☺️✨
高卒で未熟者の私が大きく成長できたのもこの会社のおかげだと思っています。素敵な上司、同期に恵まれ今でも大切な仲間として繋がっていてくれて、とても頼もしい存在です。
社会人時代については、話したいことが山ほどありますが、それはまた後ほど…ということでサラッといきたいと思います。
まずここまでで何が言いたいかというと、私は本当に【人に恵まれていた】ということ。友達や恩師、会社の上司や同期、その時その場に居た人に恵まれたおかげで素敵な経験をさせていただき、今に至ります。
●出会い、そして結婚
じゃあ旦那とはいつ出会って結婚したのかというと、旦那は実は同じ職場で働く先輩でした。
働く上で仕事ぶりや性格を知ってどんどん惹かれていき、私が社会人3年目の時に付き合いがスタートしたんです。
米屋の息子、初めは外で働いていました。
その会社を辞めて米屋の手伝いを始めたのも最近で、大学卒業後10年会社勤めをしておりました。
付き合う前から実家が米屋ということを知っていましたが、『継ぐ』という意識は全くなく、なんなら何も考えていなかったというのが正解でしょうか(笑)
でも当時から渡邊家は仲が良く、まだ付き合っている段階の私まで家族旅行に誘ってくれるほどでした。私の家族はどちらかというと淡白で、家族旅行なんてしたことないような家庭だったため、すごく温かく迎えてくれる皆さんのことが一気に大好きになりました。
令和元年、コロナ禍ではありましたが結婚。
会社勤めをしながら、渡邊家との同居がスタートしました。
そんな感じで結婚までの道のりを書いてみましたが、まーた長くなっちゃった。
読むに耐えない部分はサラーと読み過ごしていただき、『へぇ〜』と思っていただいたら幸いです(笑)
noteでは、自分のことも色々話していけたらいいな〜なんて思ってます。
長くなりましたが、スキ、フォロー大変励みになります。よろしくお願いします☺️
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