#59. 『人は人、自分は自分。』
私には六つ上の姉がいる。
社会人になるまで、他人と自分を比べては落ち込み、卑屈になってきた。
自己肯定感なんて言葉は、私の辞書にはなかったような気がする。
お金も、周りに自慢できるような運動神経も、凄いねと言われる学歴も、何ひとつ持ち合わせていない。
だから、いつしか自分を否定することが「普通」になっていた。
そんな私に、姉はよくこう言った。
「人は人。自分は自分だよ。そうやって割り切らないと、疲れるだけだよ」って。
でも、その頃の私は、「割り切る」という言葉の意味がまるで分からなかった。心のどこかで、「自分は自分でいいんだ」と思いたくても、いつの間にか誰かと自分を瞬時に比べてしまう癖がついていた。
幼稚園時代の小さな世界で
幼稚園時代の記憶は、少し曇っている。そこにはまるでカースト制度のような厳しい序列があり、子どもたちの小さな世界にも上下関係が確かにあった。先生が意図せずか、あるいは意図してか、嘘をついたり、悪者扱いをされることもあった。通学バスでは隣の席や後ろの席に座る子から腕をつねられたり、笑われたりしていた。いじめられていたのだと思う。
悔しくて、泣いた。
何度も泣いた。
けれど、泣いても状況は変わらず、泣くことが「当たり前」だと思うようになった。「私はいじめられる人間なんだな」と、幼いながらに受け入れてしまっていた。
心を守るためには、時には「これが普通なんだ」と思い込む必要がある。
どんなに悔しくても、辛くても、心を壊さないようにするために。
小さな違和感と「ないものねだり」
小学校や中学校に上がると、ありがたいことに、仲の良い友達も増え、楽しい日々を送ることができた。それでも、運動の成績や学力で自然と優劣がつけられる環境に、少し違和感を感じる時もあった。
周りの子たちは、塾やスポーツクラブ、ピアノ、英語など、さまざまな習い事に通っていた。それが「当たり前」のように思えた。
けれど、私にはそれが特別なことのように見え、ずっと羨ましかった。
誰かに学ぶ機会を与えられるなんて、どれほど恵まれた環境なんだろうと感じた。
けれど、その一方で、そうした習い事をしている子たちは、何の気なしに「また塾か。行きたくないなぁ」とか「めんどくさい、休みたい」と愚痴をこぼすこともあった。そんな言葉を聞くたびに、
「ないものねだりって、こういうことなのかもしれないな」と思った。
「我慢」の教え
そして、大人になってから、ひとつ気づいたことがある。人はどうしても、自分と他人を比べて優劣をつけてしまう。それは、仏教でいう「慢」の心に由来するらしい。慢には、自分が相手よりも上か下かを瞬時に判断してしまうという意味があると知り、なるほど、と腑に落ちた。
無意識に自分と人を比べてしまうことは、
人として自然なことであり、決して「変」ではないのかもしれない。
そのことに気づいたとき、「普通」や「当たり前」に救われている自分がいることに、ふと気づいた。
自分だけが「変」なんじゃないか、と思ってしまうことも、自分だけがこの気持ちを抱いているんじゃないか、と孤独に感じることもある。けれど、そうした想いが実は誰にでもあるものだと知ると、少し肩の力が抜けた。
人は、いつも一番でありたい
人は、一度は一番上に立ちたいと思うものだし、上に行けなければ、せめて一番下になってしまおうとすることもある。そうやって、必ず「一番」でありたいと願うところが、人の本質なのだと思うと、なんだか少し微笑ましくも感じる。
私も、一番上になれないなら、一番下にいればいいと、そう思って自分の存在をどこかに収めたくなる瞬間があった。
「一番」への執着がなくなると、自分はどこにでも居られるし、どこにいても心地よい。そう思えることが少しずつ増えてきた。
姉の言葉が教えてくれたこと
「人は人、自分は自分」。姉が何度も繰り返したこの言葉が、ようやく少しずつ分かるようになった気がする。
誰かと比べて苦しくなっても、羨ましいと思っても、どんなに悔しくても、最終的に大切なのは、自分自身をどう思うかだ。
過去の出来事や誰かの言葉で私がどう変わろうと、それは私の一部であり、私の経験のすべてが今の私を形作っている。
自分だけの「普通」を抱きしめる
人は人であって、自分は自分。
姉の言葉が私の心に根付き始め、少しずつ、私は自分の「普通」を大切にできるようになってきた。
自分の中にある不完全さも、比べてしまう癖も、「人として普通のこと」として受け入れられるようになった。それは、決して他人と比べないということではないけれど、比べても、自分を見失わないようにするための、私なりの大切な考え方になっている。
マイナスが、プラスに変わる瞬間
「マイナスのように感じていた言葉がプラスに変わる瞬間」——それは、思い出や経験がその言葉に新しい意味を与え、内面での変化を象徴しているのかもしれない。
思い返せば、何気なく使っていた言葉や、子どもの頃に抱いた感情も、大人になり、いろんな経験を経ていくうちに、まるで新しい価値をまとっていくようだ。
「我慢」や「比べること」も、かつては苦しさの象徴だったかもしれないけれど、いつしか成長や気づきの礎として受け入れるようになっていた。
そうやって、かつては自分を縛っていた言葉も、
時間が経つにつれて「自分に寄り添ってくれる存在」へと変わっていく。
それが、人生の中で生まれる小さな奇跡なのかもしれない。