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神仏探偵・本田不二雄が案内する 「TOKYO地霊WALK」 vol.15
武蔵国の辺境に息づく
流行神と反逆者たちの記憶
荒川区・南千住【前編】
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今回は、武蔵国と呼ばれた時代の辺境にして、お江戸の周縁に位置する南千住を旅します。
そこは、隅田川(旧荒川)が蛇行して生まれた陸地の最果て。
地政学的に重要な聖地であり、非日常を味わう行楽地であり、社会から弾かれた人たちが眠る吹きだまりの場所でもありました。
そんな場所ならではの出会いを求めて、地霊ウォークのスタートです。
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武蔵国の北東辺境にして要衝の地
「マージナル」な場が気になる――。
マージナルとは、「縁」や「境界」を意味する言葉です。なお、江戸人の境界観では、北は隅田川、南は目黒川で内と外が区切られていました。地名でいえば北は千住、南は品川にあたります(時代ごとに諸説あり)。
そんな辺境・周縁の場であればこそ、生まれた歴史あり、語られたドラマがあり、祀られた神仏もあり。そんなわけで、今回はお江戸北東の際、南千住を歩いてみましょう。
地図を見ると、江戸城(現皇居)の北東で、西から東へと流れていた隅田川が大きく湾曲し、南へと流路を変えています。その丸く突き出た陸地の際、湾曲の手前と曲がり切ったポイントに注目すべき神社があります。前者が素盞雄神社、後者が石浜神社です。
南千住駅の西出口に出ると、目に入るのは松尾芭蕉の像。千住は芭蕉が奥の細道へと出立した「矢立初めの地」で、ここで詠んだ一句「行く春や鳥啼き魚の目は涙」はあまりにも有名です。みちのく奥州へと向かう芭蕉に、見送りの人がみな涙したのでょう。
一方、南千住のディープな内側を旅するわれわれは石浜神社へ。徒歩19分と微妙な距離感のため、南千住東口からバスで向かうのもありです。
石浜神社の境内は、東に隅田川のうず高い土手、西にガスタンクが存在感を放つ場所にあります。現在はやや殺風景ですが、かつては鬱蒼とした杜が広がり、東は隅田川から筑波山、西は富士山を望む景勝地にして、河畔に名物の田楽を提供する茶屋が軒を連ねる行楽地でした。
なお、中世には境内地のあたりに石浜城があったといい、授与所では御朱印ならぬ御城印が頒布中。「石浜城」と大書された脇には「水上交通の要衝 武蔵千葉氏 再起をかけた城」と記されています。この地は古代東海道が通っていたとされる武蔵と下総の国境に位置し、神社近くの川端には渡し場(橋場の渡し)がありました。
神社の歴史は古く、社伝では神亀元年(724)の創祀です。
かつて石橋山合戦に敗れて安房(千葉県南部)に逃れた源頼朝は、ふたたび鎌倉を目指すにあたってこの渡しから武蔵国に入ったといい、のち奥州征討に際しては社殿を寄進して祈願したといいます。蒙古襲来のおりは、鎌倉幕府が必勝を祈念して奉幣(祭神への捧げもの)が行われたそうです。
祭神は天照大御神と豊受大御神。伊勢の内宮・外宮と同じです。そのため「関東の諸民、伊勢に参宮せんことなりがたき輩は、当社に詣で祓を受けたり」(『江戸名所図会』)ということで、往時は坂東のお伊勢さんとして篤い信仰を集めていたようです。
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真崎稲荷の奥宮「おいで稲荷」
それはともかく、注目すべきは境内の末社群です。
山と積まれたゴツゴツ岩に小祠が3基、真ん中と右のそれは岩に埋め込まれるように安置されています。この異様な神拝所は一体何なのでしょうか……。
古地図にあるように、かつてこの地には、石浜神社に隣接してもうひとつの神社がありました。
真崎(真先)稲荷。現在は石浜神社の拝殿に接続する摂社のひとつになっていますが、もとは天文年間(1532-1554)、当時石浜城主だった千葉介守胤が、千葉家に伝わる霊珠(宝珠)を城内の鎮守として祀ったのがはじまり。「真先」とは戦で先陣を切って武功を挙げることを意味するといいます。
つまり、真崎(先)稲荷は千葉氏一族の武運長久を祈願する神社だったわけですが、なぜか江戸時代、庶民の人気を大いに集めることになります。
その要因が、真崎稲荷の奥宮にあたる招来稲荷の存在でした。
その名の由来が何とも面白い。神明社(石浜神社)の境内にキツネが棲む岩窟(古地図の「狐窟」)があり、近所の茶屋の老婆が油揚げを供えて「お出で」と呼ぶとキツネがあらわれ、油揚げを食えば願いが叶い、食わなければ叶わないので、「おいで稲荷」なのだと。いわば“呼べば応える”神使のキツネ。一種の流行神になっていたのでしょう。
ところで、古川柳にはこう詠まれています。
「真先で息子おいでにとっつかれ」
「真先の稲荷に女房化かされる」
「おいでにとっつかれ(取り憑かれ)」の「おいで」は真先のキツネを指しますが、のみならず、ここから半里足らず(約1.5キロ)の場所にある吉原遊郭の“客引き”に掛けているようです。とすれば下の句も……そう、“ちょっくら真先さんに”が吉原行きの口実に使われたことを暗喩した一句だったわけですね。
そんなこんなで、江戸の稲荷番付(「稲荷諸道しらべ」)では、西の大関・鉄砲洲稲荷(中央区湊に鎮座)に次ぐ関脇にランクイン。真崎稲荷はイロイロを含めた物見遊山の“聖地”だったのです。
さて、石浜神社境内の末社群。
幟を見れば、左が「将来稲荷」、中が”おいで狐”を祀る「白狐神」祠。右の小山は、かつて石浜神社の境内にあったという富士塚(再築)で、その下部には馬頭観音(渡し場に祀られた交通守護のホトケ)が祀られています。真崎稲荷は石浜神社に吸収されたものの、庶民信仰の記憶は再構築されて今に伝えられていたのです。
ちなみに、白狐神の祠には、今もちゃんと油揚げが供えられていました。
真崎稲荷は、広重の絵にもたびたび描かれています。江戸人が愛でた隅田川河畔の景観を偲ぶなら、白髭橋のたもとから土手へと向かいましょう。見える景色は一変しましたが、辺境の要衝だった土地の輪郭は今もそのままです。
なお石浜神社境内には、かつての茶屋を思わせる和カフェ「石濱茶寮〜楽〜」がオープン。ここで名物の田楽や団子を食するもまた一興でしょう。
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場の記憶を繋ぎ留める石地蔵
さて、白髭橋につづく明治通りを西進し、泪橋交差点で右折。南千住駅方向に戻ります。
泪橋とは、かつてこの近くを流れていた思川に架けられた橋のこと。
昭和の少年にとって、その名は『あしたのジョー』の記憶とともにあり、「泪橋を逆に渡る」のフレーズは、どん底から這い上がるキーワードとして子供ゴコロに刻まれています。
しかし、もとの由来は、かつて小塚原刑場に向かう罪人にとってこの世の見納め、身内の者にとっては今生の別れの場だったことにありました。涙なしには語れない橋だったわけです。
小塚原刑場は、南の鈴ヶ森(品川区南大井)とならぶ北の処刑場で、創設は江戸初期の慶安4年(1651)。間口60間(108メートル)、奥行30間あまり(54メートル)の刑場で、磔刑・火刑・梟首(さらし首)が執行されました。明治6年(1873)に廃止されるまでの約220年余り、合計20万人以上の罪人の死刑が執行されたといいます。
その現場は、南千住駅にほど近い、JR常磐線と東京メトロ日比谷線の高架に挟まれるようにありました。門前には延命寺の文字、目に飛び込んでくるのは石造の地蔵菩薩です。やや口角が上がった眠るような穏やかなお顔ですが、人呼んで「首切地蔵」。左右の高架に電車が行き交う喧騒のなか、高さ4メートル弱の石仏がドンと居座るさまはややシュールですが、その違和感が、その場の記憶を繋ぎ留める大切な重しになっているようです。
「小塚原において仕置となる時は、その遺骸は非人頭に下げられ、この境内に取り棄てとなった。埋葬とは名ばかりで、浅い穴に死体を入れ、上に薄く土をかけただけである。したがって、雨水に洗われて手足が露出することも珍しくなかったし、夏ともなれば臭気紛々として鼻につき、野犬やいたちが屍骸を喰って残月に啼くという、この世の修羅場であった」
そんな記憶を打ち消すように頭上を電車が行き交いますが、1960年、日比谷線の工事が行われたときにも「人骨やどくろがぞくぞくと現れ」(上掲書)、首切地蔵の前に山積みされたといいます。
ここはそんな場でした。わざわざ彷徨いこんだわれわれは、合掌して「南無地蔵大菩薩」を三唱。無数の御霊に一礼してこの場を離れます。
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小塚原で出会う『解体新書』と幕末の志士
JR常磐線のガードをくぐると、ほどなく近代的な建物の南千住回向院があらわれます。
院号の「回向」とは、僧侶がみずから修めた功徳を他者に回らせること。本院の開基は寛文7年(1667)。以後、もっぱら小塚原刑場の露と消えた罪人たちの供養と埋葬を担ってきました。
受刑者の墓地は荒川区の史跡に指定されており、一般人も詣でることができます。1階の吹き抜けから中に入ってみましょう。
まず目につくのは「観臓記念碑」。教科書で見覚えのある『解体新書』の扉絵のレリーフです。
明和8年(1771)、杉田玄白と前野良沢、中川淳庵の3人が、オランダ語の解剖書を手に小塚原で行われた腑分け(人体解剖)を見学。その正確さに驚き日本語翻訳を決意した……すなわち、この刑場が日本の解剖医学発祥の地だったことを伝えています。
奥に進むと、「明治維新殉難志士墓所」です。
もとより小塚原の埋葬者の多数は重罪者でしたが、幕末の頃には政治犯の遺骸を小塚原の回向院に埋めることが慣例となり、安政の大獄以後のいわゆる憂国の志士の屍が埋葬されました。
回向院の資料によれば、安政の大獄に連座した者(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら15名)、桜田門外の変の関係者(金子孫二郎、関鉄之助ら22名)、坂下門外の変の関係者(平山平介ら11名)その他の芳名が記されています。
明治維新になり、志士らの墓の多くは菩提寺などに改葬され、ここにあるのはいわば記念墓ですが、さほど広くないスペースに墓碑がひしめくさまはまさに壮観。歴史的事実を突きつけられ、粛然たる思いです。
これらのうち、とくに吉田松陰の「松陰二十一回猛士墓」と、「黎園」と刻まれた(現在は文字が判然としませんが)橋本左内の墓は、謎解きめいた興味をかき立てます。「二十一回猛士」の意味とは何か、なぜ墓碑銘が「黎園」のみだったのか……そこは紙幅の関係で省略しますが(すみません)、現場で出会うことが学びのきっかけです。ぜひ各自検索してみてください。
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4人の悪党と烈婦のモニュメント
面白いのは、ここ回向院で埋葬され、のちに講談や歌舞伎で脚色された“悪党”たちの墓が4基集められていることです。
「腕の喜三郎」……荒くれ者の侠客で、喧嘩で片腕を落とさんばかりに斬られたものの、泰然と帰宅し、深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせたという伝説が伝わる。
「高橋お伝(戒名:榮傳信女)」……稀代の毒婦と呼ばれた明治初期の女性。病夫を毒殺し、愛人との生活でカネに窮し、色仕掛けで借金を依頼した相手を剃刀で刺殺。斬首刑になったと伝わる。
「片岡直次郎(俗名:直侍)」……江戸後期の小悪党。詐欺、ゆすり・たかり(恐喝)を常習とする無頼漢で、仲間の河内山宗俊とともに悪事をはたらいた。
「鼠小僧次郎吉」……江戸時代後期の盗賊。大名屋敷を専門に28か所32回もの盗みを繰り返すいっぽう、決して人を傷つけなかったことから義賊として伝説化された。
このほか、「烈婦瀧本之碑」は、桜田門外の変の実行犯・関鉄之助の愛人「滝本いの」の顕彰碑。元吉原・谷本楼のいのは、鉄之助の潜伏の手助けをしたために捕えられ、拷問に遭っても口を割らずに獄死したことで“烈婦”と称えられました。篆書体で書かれた題字(写真)は、なぜか渋沢栄一の揮毫だったりします。
蛇足ながら、プロレス界のカリスマ、カール・ゴッチの墓がなぜか目立つ場所にあったりもします(微笑)。
いやあ、何とも気になる人ばかりです。そんな思いがけない人物との出会いは、南千住というマージナルな場ならではのことでしょう。
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《次回につづく》
文・写真:本田不二雄
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【著者プロフィール】
本田不二雄(ほんだ・ふじお)
「神仏探偵」として、全国の神仏方面の「ただならぬモノ」を探索することを歓びとするノンフィクションライター。駒草出版の三部作として好評を博した『ミステリーな仏像』、『神木探偵』、『異界神社』(刊行順)のほか、そこから派生した最近刊『怪仏異神ミステリー』(王様文庫/三笠書房)、『地球の歩き方Books 日本の凄い神木』(Gakken)などの単著がある。
Xアカウント @shonen17
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