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小説|他人の不幸の味のソムリエ

 ハチミツはハンガリー、チーズはベルギー産と、欧州の食品も扱う店の名は「シャーデンフロイデ」。昨月、浮気した彼と別れたフランス料理店で飲んだワインが美味しかったのを思い出し、仕事帰りにワインを買ってみようと立ち寄りました。
「ワインは置いておりません」とソムリエ然とした格好の店員は言いました。ワインの選び方を尋ねた私への答えです。「棚に並んでいるのは?」と訊けば「こちらは蜜です。他人の不幸の味の蜜でございます」とソムリエは口ひげを撫でました。

 他人の不幸の味の蜜? 問い返すとソムリエは恭しく頷きます。「左様でございます。他人の不幸は蜜の味と申しますが、北半球では八月下旬から他人の不幸の収穫が始まり、破砕、圧搾、発酵、熟成のプロセスを経て蜜が仕上がります」
 近所にこんなヤバい店があったとは。ソムリエは真面目な顔で、話を続けます。「こちらは1973年物で、石油危機により大損をした投資家の不幸の蜜です。1990年物のあちらは、バブル崩壊で企業が倒産した経営者の蜜でございます」

 少し興味が湧いてきたのは人の性でしょうか。「どんな味がするのですか?」と尋ねると「たとえば前者は、氷床に咲く一輪の青い薔薇のような味。後者は砂漠のオアシスに実る椰子より滴る雫のような味でございます」とソムリエは答えます。
 なるほど、まったく分からん。そう思いながらも、ソムリエにいくつかの蜜について伺い、今年の新蜜を私は購入しました。帰り際に聞いたところ店名の「シャーデンフロイデ」はドイツ語で「他人の不幸は蜜の味」に当たる語だそうです。

 家に帰り、彼の歯ブラシや寝巻きをすべてゴミ袋へ詰めたあと、私は自室で蜜のコルク栓を抜きました。なるほど、得も言われぬ甘い香りが漂います。グラスに注ぎ、窓辺で透かせば、月明かりを吸い取って、妖しく紅く蜜は輝きました。
 今年新しく造られたそれは「浮気が露見してすべてを失ったある男の蜜」だそうです。私はグラスを傾けました。蜜はゆっくりと、私の唇に触れます。その味わいは、たとえるならば、広々とした草原を洗う春の風に芽吹いた新緑のようでした。







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小牧幸助|文芸・暮らし
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