見出し画像

「最後の卒業生」 分校で学んだ大切なこと

愛知県の西の端。木曽三川公園のすぐ近くにあった旧立田村立立田南部小学校福原分校。
15年ほど通うことになったこの分校で過ごした時間は、僕にとって忘れられないものとなった。
ここで愛知県最後の分校で過ごした日々を振り返り、一人でも多くの方に伝えておきたいと思いまとめておきます。


旅立ちの日


最後の送り出し。担任の先生と校長先生。この日もいつものようにたくさん笑った


『はい!いい練習になりました!じゃあ、今のは無かった事にして気持ちよく本番行きましょう!!皆さん忘れてくれました?』
「はーい!」
僕と、読売新聞の記者と、先生が、アーチの外から卒業生を待ってカメラを構える。

来年度から休校が決まった125年以上の歴史を持つ分校にとって、事実上、最後の卒業式は雨だった。

本校で卒業式を終え、分校に戻ってくるのは卒業生の女の子1人と3年生の男の子1人。

色とりどりの花で飾りつけられたアーチを使った送り出しは、高学年教室から廊下を通って玄関までで行われることになった。
『じゃあいよいよですね!最初は練習だからゆっくりですよ!!』
まず、お母さんと女の子が手を繋いでアーチを潜っていく。

『皆さん、撮れましたか?』
「たぶん・・・」
『じゃあもう一回いきましょうね。気を取り直して本番前の最後の練習ね!』

皆、嬉しそうにアーチを作り直して卒業生を待つ。
お母さんも、女の子も、今まで入学式、卒業式の度に経験してきた事なので自然に笑顔になる。

「えー??今のが本番じゃなかったの??」
『本番前の最後の練習でしたよ?』

おめでたい門出の特別な日。
人数も少なくできることは限られていたが、精一杯、お祝いの気持ちと喜びを伝える日だ。

皆んながちゃんと撮れるように、音頭を取るのは僕の役目になっていた。
保護者の方とアーチをくぐった後は『はい、次は先生バージョンで!!』など、皆さんがいい写真を撮れるように何度も繰り返すのだ。

最後の卒業生が入学した日。この日も皆んなでたくさん笑って晴れの日を祝った。

晴れた日は、玄関から校門まで4つのアーチで、くぐったのを確認しては先頭に向かって走っていくので、アーチを持つ在校生、先生や保護者の皆さんもいつもへとへとだ。

「もうーダメ!」「頑張れ〜」「もうちょっとゆっくり歩いて!!」
校庭の太郎桜が見守る広々とした青空下。
少し冷たさを含んだ風にのって、分校に皆んなの笑い声が響き渡る。
「いいなあーこれが分校だなあ」
「先生や駒さんは写真撮ってるだけだから!!今度はやってよ!!」

思い返せば、分校の先生方はいつもあたたかい眼差しで、子供達、地域の皆さんを見つめていた。
時にその眼差しは、そのまま僕にも向けられていたのだと実感する。

福原分校との出会い

入学式の日。次郎桜と太郎桜。


木曽川と長良川に抱かれた中洲のような輪中に、白い鉄筋平屋建ての福原分校がひっそりと佇んでいた。校舎は、向かって右手に教室が3部屋と、ガラス扉の玄関を挟んで職員室ともうひとつ教室が並ぶシンプルな造り。

校舎の脇に花子桜、校門に次郎桜が咲き、芝生の校庭の向こうには、立派な太郎桜が訪れる者を迎え入れるように咲き誇り、入学式という晴れやかな日を祝っていた。

見事な桜を眺めていると、本校で入学式を終えた双子の新一年生が家族と共に分校に入ってきた。

分校のシンボルツリー太郎桜。分校名物お花見給食。


桜の前で記念写真を撮っているご家族の元へ行き挨拶をすると「いいですよ!こんな時に撮ってもらえるなら喜んで」と返事を頂けたので、双子の男の子の写真を一緒に撮らせていただいた。
後にこの双子の子達とは、休校後、校庭でのお花見会や写真展開催など、分校の活用を一緒に考えるかけがえのない仲になった。

ひと通り写真を撮り、職員室を訪ねると教務主任の先生が応じてくださった。
可能な範囲で大切な地域の学校の日常を記録に残していきたいという僕の想いを話した。

「そういう事でしたか」
おそらく学校に通う子供たちも、先ほど会っていた保護者の方達も賛成していただけるだろうとのこと。

「ここは分校なので本校の校長先生と話してきてください。今から行けますか?私から伝えておきます」
僕は、木曽川の向こう側にある本校へ向かった。

忘れられない校長先生の言葉

分校から4km離れた本校まで、両脇にハス畑が広がる景色を眺めながら車を走らせると、南部小学校の立派な校舎が見えてきた。
今思うと、入学式を終えたばかりの慌ただしい中、突然の来客にも丁寧に応じてくださった事は、ほとんど奇跡に近い出来事だったのかも知れない。

さっそく校長室に通され、校長先生と、教頭先生に迎え入れていただけた。話をする前から受け入れる事を決めていて下さっていたような雰囲気だった。

なぜ撮りたいと思ったのか?どういった撮影を考えているのか?気をつけている点など経験を交えて夢中になって話した。

校長先生の学校や地域に対する想いもお話しいただけた。
教育には必要な無駄があると思うのです
校長先生のこの言葉は今もしっかり記憶に焼き付いている。
よい記録をたくさん残して下さいと見送って頂き、結果をすぐに分校へ戻って報告し福原分校へ通う日々が始まった。

輪中と福原分校の歴史


通学路から見た福原輪中の風景

この辺りの地域は水害なども多く、三川分流が完成するまでは、北は羽島の辺りから河口にかけ80程の輪中が集まる地域だった。
寛永元年に立田輪中が完成し、その南西に陸続きで福原輪中は存在していたようだ。
なぜ一括して立田輪中にならなかったのか不思議に思うが、この頃から福原分校誕生に繋がるルーツがあったと想像すると興味深い。

分流工事が完成し、立田がある愛知県側とは900m程の木曽川に分断され、そのため本校との往来も、1984年に立田大橋が開通するまで渡船で渡っていた。

この辺りでは、陸続きになっている堤防を下っていった長島、桑名といった三重県側への往来が便利で、立田大橋完成後も渋滞が激しくなる観光シーズンなどは、遠回りになっても南側から福原に入る方が時間的に確実だ。
立田大橋を渡って給食を運んでくる車が、交通渋滞に巻き込まれ大幅に遅延することも度々あった。

福原分校は、本校の南部小学校より15年早い明治25年、加立尋常小学校として設立。
加立とは、地元の有力者で加藤太兵衛氏の私費によりできた学校が起源となっていることを示しており、現在、その加藤家は地元で牧場を営んでいる。

鉄筋の校舎ができる前は、分校を少し北に向かった辺りにある牧場に木造校舎があり、昭和40年に現在の場所に移転し、61年に一部屋増築経て現在の姿になった。

昭和23〜31年の間までは中学校も併設されていたようだ。

愛知県最後の分校の様子


何かあると皆んなで記念撮影をした


分校の全校生徒はわずか6人。双子の男の子、2年生に女の子が1人、6年生に男の子3人。世帯数にすると5世帯。
僕が知る中で最大の世帯数だった。

玄関を入っていくと右手に歴代の集合写真が掲示されている。
水槽から聞こえるポンプのぶくぶくという音だけが、この空間に唯一動きを与えているようだ。

子供達が登校してくると、低学年教室が賑やかになり、静かな水面に石を投げ込んだように、校舎から輪中の集落全体に活気が広がっていくのだった。

新一年生の男の子。後に分校でお花見会など中心になって動いてくれた。
どうしても1年生の事が気になる6年生。先生方は子供達の気持ちに一定の理解を示して指導されていた


6年生は、初めて男の子の下級生が入ってきたので、嬉しくて仕方がない様子だ。
健康チェックなど朝の準備の時間は、双子の男の子を囲み手伝いに夢中になった。低学年を受け持つ担任の先生が入ってきても、全く自分達の教室にいく様子は見られない。

その様子をひとしきり見届けたようなタイミングで、6年生を受け持つ先生が教室に向かって行くのが見えると、いそいそと自分たちの教室に戻って行くのだった。

「しっかり低学年の子供たちのことを見てくれてと、つい、微笑ましくなってしまいますけど、自分達の授業は?と毎日注意しているんですよ」
先生は嬉しそうに話してくれた。

皆んなと仲良くなれたのも、魚とりや竹馬を上手にできるようになったのも6年生のお陰だ。


高学年の教室は、他の学年の教室と違い、後ろ側に舞台が備わっている。
普段はカーテンが閉じられているが、発表会の時などはこの舞台を使って、地元の方たちが見守る中、芝居や、草花や生き物など、福原の自然から学んだ成果を発表する。


先生の目線は常に子供と同じ位置だった


時が経過しても常に先生の目線は変わらなかった


特に、野鳥の観察に適した環境のようで、空いていた中学年教室には、望遠鏡が設置されており、珍しい野鳥が校庭にやってくると、ほんのいっとき授業が鳥の観察に変わる事もあった。

放課の時間は、芝生の校庭でサッカーやかくれんぼ、缶蹴りに夢中になった。
全校生徒が一気に2人増えたのはとても影響力があったようだ。
僕もすぐに誘ってもらえたので、思いっきり芝生の校庭を走り回った。
息を切らせるほど駆け回っていたが、女の子が1人にならないよう6年生が率先して一緒に遊んでいたのが印象的だ。
僕がすんなり皆んなの輪に入っていけたのも、この6年生達のお陰だ。


放課も当番も、6年生は常に下級生と一緒に楽しんで過ごしていた


「小規模の学校はいい面もたくさんあるのです。ただ、人数が限られるのでどうしてもできない事が出てきます」
ドッヂボール、野球といったチームが必要なものはもちろん、ここでは、大縄跳びをしようと思ってもスムーズにはいかない。

ただ、そういった一見するとマイナスな事でも、そこに工夫や協力が生まれ、先生も子供達も得難い経験を得ていくのだろう。
福原分校の場合、2学期の一ヶ月ほどは、自転車で本校へ交流学習に出る。
そこで大人数の生活も経験できるし、自転車で立田大橋を越えて行くので体力も自ずとついてくるのだ。

放課後も分校に集まって、校庭で遊んだり、分校に置いてあるタモとバケツを持って、魚とりに出かけ、エビやヤゴ、タイコウチ、水カマキリ、小魚等を捕まえてくると、先生を呼んで魚達を見てもらい分校の水槽に入れる。

それが、後日、ヤゴからトンボにかえるまでを纏める6年生の研究につながった。

分校の伝統魚とり


まだ入学前だった最後の卒業生となった女の子。
放課後は、時には入学前の子、卒業していった子も一緒に遊んだ


水カマキリやタイコウチ、ヤゴが水槽に入ると、小魚をどのように捕食するのか?先生も含め分校の最大の関心になった。

『先生!水カマキリが捕食してます!!』
ある時、1人で水槽を眺めていると、水カマキリがついに小魚を捕まえた。
授業中だったが、職員室、教室を回って知らせた。
たちまち授業は一旦止まり、子供たちは水槽に釘付けになり、先生達も声を上げながら見守った。
「うわぁ!」「吸われてる!!」
「実際にこのようなシーンを見ることなんてできませんよね!とっても貴重です!」

その後も、タイコウチ、ヤゴ、エビが捕食するところを観察し、特に、エビが両手をうまく使って次々に魚を捕らえる食欲旺盛さには、分校全員で目を丸くして驚いた。
これでは小魚が足りないということで、放課後の魚とりにも熱が入り、授業でも魚をとりに行く機会が増えていった。

そういった甲斐があり、水槽にはヤゴが増え、初めて羽化に成功した。
分校のみんなが声をあげて見守る中、トンボは教室を悠々と飛び回わり、やっと外に出ていった途端、呆気なく野鳥に食べられてしまったのだ。
「わぁああ。せっかくトンボになったのに自然って厳しいー」
この出来事は、しばらく分校の話題になった。

今日の放課後は魚とり。タモとバケツを持って下校する


魚のとり方は6年生が教えてくれた。
卒業が間近に迫ってきた頃、いつもの用水路を眺めながら「まだ1年生の2人は上手に魚をとれないから、駒田さんがしっかり覚えて伝えていって」と僕に向かってポツリといった。

「僕たちがいなくなっても寂しがらず、残った皆んなで協力しあって仲良く楽しく過ごしていって下さい。困ったことがあったら相談しにきて下さい」
3人の6年生が卒業し、僕は、教えられた通りに魚とりを続けた。

『先生!今日は大漁です!』
授業中も様子を見て1人でタモとバケツを持って出て、分校に戻るといつも通り成果を確認してもらった。

「駒田さんが来るのをみんな待ってましたよー!!今日は魚とりに行きましょう!!」
やがて、分校は女の子だけになる時期もあったが、自然観察の授業は魚とりになる日も度々あった。

先生たちの想い


卒業生から手作りのプレゼント。僕までいただいてしまった


気がつくと、僕は、分校の一員になっていた。
先生も1人増える事で広がる可能性を最大限活かそうとしてくださっていた。だから、ただ写真を撮りにきている人ではなく、それなりに役割を持った存在になれた。
僕が、自然体で過ごす事ができたのも分校の先生方のお陰だ。

「駒田さん!今から発表の練習するのでよかったら」
大切な発表の練習や音読、演奏も、僕が観客役として客席に座ることで、無人の客席に向かって練習するのとは緊張感も変わっているようだ。

授業や自然観察、放課の遊び、僕も分校にいる時は全て積極的に参加し、地域の人たちとの会も、可能な範囲でお友達などを連れて分校に行くようになった。


復活した分校キャンプ。


分校に来ていることを見守ってくださっている学校の関係者、地域の皆さんに対して何か還元したい。
そういった気持ちが芽生え、分校の写真展が始まり、過去の写真を振り返る事で夏休みの分校キャンプが復活した。


中学校へ通うようになっても卒業生達は分校に顔を出してくれた


そして、写真を撮ることは分校の日常になった。
先生方も、とにかく写真をたくさん撮る。
何かの節目はもちろん、いいと思うと「ちょっと待って!」と写真を撮る。入学式、卒業式の日に、花のアーチを持って何度も行き来するのも、誰がいい出すわけでもなく自然にそうなっていた。

「分校には教育の原点があると感じるのです」
人数が少ないので、限られた時間でも子供達の気持ちに寄り添い、学びたい、経験したいという気持ちに応えていく事ができるということだろうか。
「できたらいいなが形になるのが分校の良さです」
こういった言葉が出てくるのも、先生方が何よりも子供や地域を優先にして考えていたからこそだと感じるのだ。


お世話になった中学年教室とお別れの日。『先生、この教室ともお別れですね』
「あっそうですね!やりましょう!!」担任の先生と3人で黒板にメッセージを書き込んだ。
先生も子供達も共に『できたらいいな』を積み上げていたようだ


『先生!渡船が廃止になるようですよ!!この地域の歴史が消えてしまいます』
「え??それは大変だ!」
通常の業務に加え、安全確認、調整や下見など様々な段取りがあったはずだが「調整は分校の得意技」と、先生方は、保護者の皆さんや校長先生と共に葛城渡船への乗船を数日後に実現してしまった。

福原分校と別れの日

「少ない人数だったけど、家族と過ごしているような楽しい分校でした」
今までの卒業生と同じような言葉を残して、最後の卒業生が巣立ってから数日後。
休校式の日を迎え、静かだった分校に今まで見た事がないぐらい人が集まった。

その式典で、卒業生と在校生が発表を済ませ、この分校にきて最初に出会った双子の男の子はスーツ姿で立派に挨拶文を読み上げた。

春休みは分校で。毎年、桜の咲く校庭でたくさん遊んだ


分校で過ごした最後の春休み

休校後、新学期が始まるまで、いつもの春休みと同じように何度も分校で遊んだ。
ボールや虫を追いかけ、中学生や高校生、大学生も一緒になり思いっきり走り回った。

職員室に目をやると、窓を開けて様子を見てくれたり「少しだけなら」と、一緒にボールを追いかけてくれた先生方はおらず、窓は閉じられたままガラスが周りの景色を映しているだけだった。
ふと、いつもより福原が静かに感じ、どこか寂しい気がした。


思う存分駆け回り通い慣れた通学路で。この後、女の子と在校生を家まで送っていった。


最後に校庭で遊んだ後、卒業した女の子と2人で在校生の男の子を家まで送っていった。
「ねえ、最後に何しよう?」
『んー、何かあるかな?』
「福原タイムで勉強した草花のこと覚えてる?」
女の子がそういうと土手にいき「これ、ほら、わかる?」男の子に草花の説明を始めた。
「なんだろう?」
「ねえ、ちゃんと覚えてよ!私は中学校に行くんだから、これをできるのも2人だけなんだからね。駒さんも!」

ひとつ摘み、名前や特徴を口にしてまたひとつ摘み。

陽が傾き遠く山の向こうに沈もうとしている。少し冷たさを含んだ風が吹き、輪中の景色が薄く茜色に染まっていった。


愛知県唯一だった分校最後の卒業生


あとがき

休校が決まった年、大学生になった双子の男の子が中心になり、最後の思い出として、分校の大きな桜の木の下でお花見会を開きました。
翌年、分校は正式に閉校となり、これまでの感謝の気持ちを込めて、お花見会と写真展を開催しました。
かつてここで学んだ方々や、教壇に立った先生方も集まり、分校らしい笑顔があふれる温かい会となりました。

この様子は、地元の新聞にも掲載され、多くの方に福原分校について発信することができました。
分校が再び開かれることはないかも知れませんが、この場所で過ごした日々は心の中に永遠に生き続けるでしょう。


お花見会を終えて。歴代の先生方も駆けつけてくださった。


福原では、ふるさとを大切に思う心の大切さを学ぶ事ができました。分校が取り組んでいた、自然の観察は、当たり前のように身近に存在しているものごとを見つめ、その素晴らしさに気づく為の学習だったのかも知れません。

自分たちの地域、文化、身近な環境を大切にできるからこそ、他の地域、文化、環境に理解を示し、大切にしていけるのだと教えられた気がします。

多様性を意識する機会も増える反面、急速に合理化、画一化が進んでいるように感じられます。
そのような時だからこそ、この分校で感じていた想いが必要とされる場面も増えてくるのではないでしょうか。


本当にありがとうございました。

#最後の記念写真 #まちの記憶をカタチに  


「最後の記念写真」では、全国各地の大切な場所を記録し続けています。他の取材記事もご覧いただけます。▶ [目次ページはこちら]

福原分校の他にこのような節目の時を記録しています


なぜ、最後の記念写真を撮っているかこちらに思いを綴っています


いいなと思ったら応援しよう!