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95年の記憶、塩尻の銭湯「桑の湯」最後の物語 – 家族と地域に愛された場所の記録
塩尻の街で95年間、人々の疲れを癒し続けてきた銭湯『桑の湯』が、静かにその長い歴史に幕を下ろしました。
今回は、最後の瞬間まで、家族と地域の人々に温かく見守られ、愛され続けた銭湯の物語です。
たまたま目にしたインターネットのニュースで、塩尻の桑の湯が閉業することを知った。95年の歴史を持つ銭湯が、惜しまれつつも閉業するという内容で、その歴史は、僕を深く惹きつけるものだった。
桑の湯の始まりは、現在この場所(一番町)より少し駅寄りの八番町で営んでいた桑沢木材商店に遡る。製材の時に出る木端を無駄にしないようにと始めた銭湯が街の人々の憩いの場となっていった。
木材店は、既に他界した先代が平成に入った頃、建材の変化を感じ取って廃業したが、その後も、馴染みのある解体業者が運んでくる廃材を利用して湯を沸かし続けてきた。
最盛期には「これ以上入れない」と入場制限をかけるほどの賑わいを見せていた桑の湯だが、現在は一日あたり30人から80人ほどの利用客が訪れるようになっている。
95年続いた桑の湯の廃業を知って
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六月、初めて塩尻を訪れた。しとしとと降り続く雨の中、向かったのは桑の湯だった。
廃業という重い決断。既に多くのメディアが取材に訪れている中、僕がさらに取材を申し込むのは気が引けた。しかし、この場所の記憶、そして何よりも関係者の皆さんのために、記録として残しておきたいという想いが募り連絡を取ることにした。
四代目と約束した15時が近づいていた。
塩尻駅前の大門商店街を抜け、ウィングロードというショッピングモールを過ぎたあたり。ひっそりと佇むその場所に、ひときわ高く伸びる煙突が、桑の湯の存在を静かに主張していた。
銭湯の入り口脇にある自宅の玄関でチャイムを鳴らすと、四代目とお母様が深々と頭を下げて出迎えてくれた。
案内されたのは、コの字型に建つ建物の奥。老舗旅館を思わせる廊下を進むと、ガラス越しに中庭と巨大な煙突の根元が姿を現した。通された部屋には、桑の湯の歴史を物語るかのように、重厚な飯山の仏壇と数々の表彰状、そしてご先祖様の肖像画が飾られていた。
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仏壇に掌をわせてから向かい合わせに座り、僕と四代目は、少し緊張しながらも、直接話ができることをどこか楽しみにしているようだった。
「メッセージをいただいた時から、もちろんお受けしようと思っていました」と前置きし四代目はこう続けた。
「閉業は残念なことですが、それをカメラマンの方が撮りに来てくださるなんて、本当に光栄なことです。長年勤めた会社を辞める時でさえ、記念写真を撮ってもらえることなんて滅多にありませんから」
従業員の方々からも、ぜひ取材を受けるようにと強く勧められたそうだ。
「天皇陛下※の代表撮影をされた方に撮って頂けるなんて、まずあり得ません」とも聞かされていたそうで、お母さんは「偉いカメラマンの方がいらっしゃるからどうしましょう」と少し緊張されていたらしい。
※撮影当時、皇太子殿下(現在の天皇陛下)
温かいお茶に母さんお手製の漬物が添えられていた。信州らしい素朴な味わいに塩尻に来たことを改めて実感した。
「実は、もう廃業しかないと思って、それに向けて片付けなどの準備を進めてきたのですが、後継者を探して残す方法もあるとご助言を頂いて、つい最近方針を転換したばかりなのです」と四代目が語った。
「施設の老朽化もありますが、もう母も高齢で自分も体調を崩してしまって。お客さん達の事も考えると限界が来て突然辞めてしまうという形にはしたくなかったのです。半年あれば、お客さんにも準備もしていただけるだろうと。何とか皆さんの力を借りて続けてこれましたが、まだしっかり余力を残して元気なうちにという思いがありましたから」
「では、銭湯を案内しましょうか」四代目はそう言って立ち上がった。
建物は歴史を感じる風格を備えていたが、近隣の火災による延焼で昭和26年に建て直されたものだ。
脱衣場に入ると、格子天井と大きな鏡が印象的だ。
出入り口付近にある胸ほどの高さの番台は、現在も使用されており銭湯の歴史を物語っているようだ。
サッシの戸を開けて浴室に入ると、正面の壁は淡い鶯色に塗られており、壁画などはなくシンプルそのもの。窓から入る柔らかい日中の光も相まって清潔感を感じさせる空間になっていた。
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『長野には富士山を描く文化はなかったのですか』と尋ねると、以前は富士山の絵が描かれていたそうだが、平成に入ってすぐの頃に脱衣場と浴室を改修した際、長野には既に壁画を描ける人がいなくなっていたため「無理に描いてもらう必要もないと思い、一色で塗ってもらった」とのことだった。
ひと通り建物の中を見て回った後、桑の湯の心臓部、釜場に向かった。
台所の脇にある扉から中庭に出て、煙突の麓にある戸を引いて薄暗い釜場に入っていく。
配管や濾過器などが露出した狭い通路を抜けると、羽織っていた上着を脱ぎたくなるほどの温度になった。正面に薪が積まれ右手側に銀色の直線的な造りの釜が置かれていた。
この釜は、平成26年に新調されたものだ。
この奥が焚き物小屋になっていて、長さを揃えられた薪が綺麗に積まれているのだった。
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「ちょっと待っていてくださいね」
四代目は、釜に薪を焚べ始めた。
重い釜の扉を開け、左側に積まれた大きな木材を手に取り釜に押し込んでいく。その様子を炎が赤く照らしている。扉を閉じると四代目の表情がずいぶん柔らかくなり、仕事を楽しんでいるようにも見えた。
高度成長期を経てガスや重油といった燃料に切り替わっていき「父ちゃん、今はスイッチひとつでお湯が沸く時代になって、世の中便利になってきたね」と話していたそうだが、桑の湯は木材店を営んでいた関係から、薪を燃料とする昔ながらの方式を変えることはなかった。
「廃材を利用し、お湯を作り、ここから出た灰は土に良いということで畑などに撒かれ、時代と共に環境問題などが大切にされる様になり、周りを見渡すと周回遅れなのに最先端のようになっていました」と付け加え、少し照れくさそうに笑った。
ひと通り説明を聞いた後、釜場の熱気から離れ中庭の椅子に腰を下ろしひと休みした。 この場所は、慌ただしい中、四代目が唯一ほっとできる場所のようだ。
静かに雨が降り続く中、まるで時間が止まったかのように、静寂が中庭を満たしていた。すぐそばの紫陽花は、今年は花を咲かせることなく雨粒をその葉の上に静かに乗せている。
『今日もいつも通りという言葉がとても印象的で心に響きました』
四代目のコメントについて話を向けると
「そうなんです!そこを見てくださっているなんて!変わらずしっかり湯を作って、お客さまには、1日の疲れを癒やして頂き、今日もいい湯だったと言って頂けるようにやっていこうと思っています。日常が何よりも大切なのです」
日常の中にある何気ないことこそ大切で、しかし、そうした身近なものは写真にも残りにくい。目の前に当たり前のように存在していたものの価値は、失って初めて気づくことが多い。そのような場面を何回も見てきたからこそ、せめて写真に残しておきたいのだと僕の気持ちを伝えた。
お客さんの様子が気になったのか、四代目と脱衣場に戻ると、そこには、お風呂上りの人々の何気ないふれあいが感じられた。お風呂から上がったお客さんは、足元が濡れると雑巾を持って綺麗に拭きあげ、牛乳を飲めば、空になった瓶を軽くすすいで片付けていく。
「ちょっと桶を置く場所を変えようものなら『場所が違う』といってお客さん達が元の場所に戻していかれるのです。本当に綺麗に大切に使って頂けてありがたいです」と四代目は嬉しそうに話してくれた。何気ない光景の一つひとつが、桑の湯が地域の人々にとってかけがえのない、大切な場所であることを静かに物語っていた。
僕は、脱衣場に残り、番台さんからお勧めの晩御飯などを聞きながら、しばらく脱衣場の様子を眺めていた。
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年配のお客さんが多い中、学生さんがお友達と一緒に入ってきた。
彼は、桑の湯が人生初めての銭湯で、すっかり銭湯の持つ歴史的な雰囲気と寮生活では味わえない広々とした浴槽に魅了され、お友達を誘って桑の湯に通う常連さんになった。
その様子は、ちょうどニュースに流れ「こうして湯船に浸かっていると文化や歴史を感じる」とコメントをしていたので、僕は彼のことを知っていたのだ。
風呂上がりに話しかけてみると、学生さんは、カメラも好きなようで僕とも話があった。
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晩御飯を食べに行く前に、声を掛けようと引き戸一枚で繋がっている廊下を歩き居間に入った。
居間の座卓を囲んで、お母さんと丸文さんが世間話をしていた。
商店街で本屋と花火屋を営む丸文さんは、小銭の両替のほか、桑の湯で販売する牛乳を冷やすために冷蔵庫を提供し、定休日などで桑の湯の家族が入浴できない際には、自宅のお風呂を快く貸していたという。日頃から親しい交流があり、毎日のように桑の湯の様子を見に来ている。
「もうこれからシーズンでしょ?花火一本一本値段をつけていかなきゃいけないので今日も夜鍋仕事。昨日は4時までやってたからねえ」
『ええ??それでこんなに遅くまで起きていらっしゃるの??』
そんな丸文さんは、ウイングロードの2階に店舗を出していたが、桑の湯の閉業と同じ時期に通りにある本店に店舗を移す最中だった。
「お店閉まっちゃうから早く行っておいで」
丸文さんは、お店が空いているか確認するため電話をしてくれた。
食後、桑の湯に戻り『ラーメンを食べてきたんですよ』と話すと四代目は目を輝かせた。
実は、四代目は海鮮を勧めてくれたのだが、本当はラーメンを勧めたかったのだという。遠方から来た客にラーメンを勧めるのは気が引けたらしい。
しかし「あのラーメンこそ、塩尻のラーメンだと思っているのです」と熱く語ってくれた。かつてこれぞ塩尻ラーメンといえるものがあったが、復活し、それが僕が食べたラーメンだったそうだ。
そして、それを復活させたのが、小さい頃から桑の湯に通い、現在は開店準備などを手伝いに来ている風呂仙人ことおやじさんだという。
塩尻のラーメンの話で30分以上も話が止まらなかった。
「つい熱くなってすみません」
と嬉しそうに話す四代目に、僕は屈指の教育県として知られる長野らしさを感じていることを伝え『長野の方は、本当に説明が丁寧で優しさを感じます』と付け加えた。
「教育県だなんて」と、四代目の見解が続き、またそれについて話題が尽きないのだった。
夜が明け、空は晴れ渡っていた。日差しが桑の湯を照らし、中庭から煙突をまじまじと見上げた。先端は煤けているが繊細な装飾が施されているように見え、昨日の夕方にはつるんとしていた表面は、左官職人の息遣いが伝わる独特の表情を持っていた。
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改めて朝の桑の湯を訪れた。桑の湯の一日は、午前11時頃、釜に火を入れることから始まる。
金属が軋む音をたてながら、重い鉄の扉をゆっくりと開けると、漆黒の釜に吸い込まれそうな気流をはっきりと感じる。新聞紙を丸めて小さな薪を手際よく準備して火を起こす。
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多くの人を温める熱源は、たった一本のマッチから生まれるのだった。
ある程度燃え始めればつきっきりというわけでもないが、30分から1時間おきにぐらいに様子を見にいき薪をくべる。そして13時頃から開店時間の15時に向けて全力で焚いていくのだ。
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「大きい薪はじわじわと燃え続けるので温度を保ちたい時に。小さな薪は燃え尽きるのは早いがよく燃えるので温度を上げたい時に使っていきます」
気温に左右され、かつ、お客さんの入りによって使用する湯量が違うので、場数を踏んだ経験値がものをいうようだ。
「ある程度まとまってお客さんがくると温度を上げていかないといけません」
蛇口を捻ればお湯が出る生活に慣れた僕にとって、この概念をすぐに理解するのは難しい。
釜場での仕事は、湯船の湯を沸かすだけではなく、シャワーやカランから出るお湯全てを供給するためのものだ。お客さんがお湯を使えば使うほど、お湯を作っていかなければならないので、お客さんが何人ぐらい入ってきたかを把握する必要がある。
湯を沸かすではなく『作る』という表現はどういう事かと思っていたが、四代目の仕事ぶりを見ているうちに理解できるようになった。
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おやじさんも小さい頃から桑の湯に通っていた
掃除など開店準備をしていると、開店時間の15時はあっという間だ。
1日に90キロ〜120キロ程の薪を燃やし、閉店後も釜の火が消えるのを見届け、掃除などをすると就寝は深夜になる。
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今は閉業に向けて以前のように薪を準備する必要はなくなったが、家業とはいえあまりにも忙しい生活だ。
日常生活の為の時間はどこにあるのだろうかと思えてくる。
火曜、金曜と2日定休日があるが、定休日にしかできないメンテナンスの仕事が待っている。
浴槽の掃除をしようとすると丸一日。
熱膨張を起こしている釜は、長く使っていくためには完全に冷やせない。定休日とはいえ火は欠かさずいれているのだ。
溜まった灰を出したり、釜から煙突の方に入りススを落とす作業も必要だ。
薪を燃料にする釜は、温度がそれほど高温にならず長持ちする特徴があるそうだが、このような作業は、薪を燃料にしているからこそ必要になってくる。
「若い頃はなんでも1人でやれると思っていましたけれど、倒れてしまってからは、もう無理はできないなというのが常にあります」
営業時間を延長してみるなど、やってみたい事はいくつかあったが、現状維持が精一杯といった感じだった。
釜場での仕事を一旦終え、中庭のいつもの椅子に腰掛けた。
「お風呂は自分がやるものだと思っていましたが、四代目というのを意識し始めたのはここ2年ほどなんです」
『それにしても、自分の時間というものがありませんよね。休みたいとかないですか?』
「公衆浴場として決まった時間に決まったように開けるというのが使命だと思ってやってきたので、そういうのはありませんね。お風呂を一番に考えた生活をしていると自然とこうなった。そんな感じです」
若い頃に、バイクでアメリカ大陸を横断したり、お風呂の仕事をしながら好きなことはしてきたと付け加えた。
桑の湯の最後の日
改めて、桑の湯が閉業する6月末に合わせて三日間滞在した。
その三日間は、定休日である金曜日も含まれていたが営業し、営業時間も22時まで延長することにした。
「今までそのちょっとの事ができなかったので、やってみたかったことを少しだけですけど」
開店前にいつもの中庭で、四代目から話を聞いた。
週末ということもあり、最後の三日間、きっちりお客さんの対応ができるかを案じている様子だった。
『今日もいつも通りですね』
「はい。今日も日常の桑の湯で」
2人で朝一番に釜場に向かった。
薄暗い釜場は、ほんのりと昨日の熱気を保っていた。
どうしても桑の湯の1日の始まりであり、お客さん達の笑顔や安らぎの元になるマッチの炎を撮っておきたかったからだ。
釜の正面に向かい合い、マッチを擦ってもらった。
写真的には真っ暗な環境で、写っているのかどうかもわからなかったが、決めていたように撮り終え、その後、四代目が釜に火を入れた。
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最終日までの三日間は慌ただしく過ぎていった。金曜日のお昼は、番台さんや四代目にお勧めされた塩尻駅の蕎麦を食べに行った記憶がある。
事業を継続してくれる後継者は、数社応募があったようで銭湯を残す道筋は見えてきたが、創業者である桑沢家は、ずっと暮らしてきたこの家から離れなければならない。
「母ちゃん、今日はまかないにカレーを作ってもらえる?」
四代目が、まかないで一番のおすすめがカレーライスだった。
大きい鍋で煮込まれるカレーは、どこか素朴で家庭的な優しさを感じるものだった。
僕が『美味しい』『美味しい』とおやつがわりに食べていたミニトマトのお漬物。
「いっぱい食べてくださるからまた漬けておいたので食べてくださいね。甘味は控えるようにってお医者さまからいわれているので少し控えているのですよ」
こんなやりとりも、いつもまかないを準備しているお母さんの姿も、この台所も、居間での団欒も、もう見ることはできないだろう。
弟さんも泊まり込みでお手伝いに来ていた。
朝、いつもの中庭の椅子に腰掛けていると、弟さんが黙々と廊下の掃除をしているのが見えた。
雑巾掛けをして、手に棘が刺さったようで少し掃除が止まっていた。
「兄にはけっこうきつい事をいってきました。僕にしかいえないと思っていたので」
お母さんや、兄の健康を気遣っていたのだろう。
離れているからこそ、客観的に無理があることを感じていたのかもしれない。
銭湯を閉じることについて、僕は、お母さんにも、四代目にも、弟さんにも改めて聞くことはなかったように思う。
いつも話に花が咲いた居間は、周囲に慌ただしい気配を感じるものの、落ち着いた雰囲気だった。
手作りの金メダルを作ってくれた女の子に手紙を渡すために、お母さんと四代目はタイミングを待った。
最終日は、夕方から雨の予報だった。最後までいつも通りの桑の湯でいたいという気持ちもあったが、閉店前に95年間の感謝の気持ちをお客さんたちに伝えることにしたようだ。弟さんと四代目が、どのような手順で挨拶をするか、対応に追われながら話し合っていた。
なかなか決まらない様子だったので、少し躊躇したが話に加わり、脱衣場で挨拶をしてお客さんたちを見送ることを提案した。
開店前、早番の従業員さん達一同で記念写真を撮影。
主に開店準備など裏方として大活躍だった風呂仙人ことおやじさんもその写真に収まった。
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桑の湯に入るために、銭湯ファン、銭湯の関係者、県外からもお客さんが訪れていた。
特に最終日は、200人が桑の湯を訪れ、四代目が作るお湯を堪能していった。
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「ここは湯冷めしませんね。自分でいいと思った銭湯だから冬でも通っています」
松本からわざわざ桑の湯に入りにくる常連さんの姿もあった。
いつも2人がけのソファでのんびりしていくご近所の常連さん。湯上がりの休憩時間も日課のようだ。今日も、お風呂上がりに愛用のカメラを手に佇んでいる。よく見ると、そのカメラは僕が使っている機種と同じものだった。
『撮らせていただいてもいいですか?』
これがきっかけで、常連さんから普段撮っている写真を見せてもらい、意気投合した僕たちは、閉業後も一緒に食事に行くお付き合いが続いている。
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僕がソファに座る常連さんを撮っていると、他の年配のお客さんがご近所の常連さんの隣に腰掛け「私も、このカメラで撮ってもらえませんか?」とカメラを僕に手渡した。
『このまま撮るとお二人の写真になりますよ』
「せっかくですから、一緒に収まりましょうか?」
「どうぞどうぞ、いいですよ」
そのままご近所の常連さんと写真に収まった。
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お向かいで喫茶店をやっていた
夜は、寮生活を続けている学生さんからメッセージが入っているのに気づいて男湯に急いだ。
『今日お友達は?1人できたの?』
「ええ、今日は、敢えて1人できました。多分、お友達も1人できているかと思いますけれど」
その予想通り、後から友達も合流していた。最終日だったから、一人静かにこの場所の記憶を噛み締めたかったのかもしれない。
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記念に浴室で写真を撮って欲しいというので、一旦、風呂から上がり牛乳を飲んで熱を冷ましながら浴室が空くタイミングを待った。
閉業の時間が迫り、お客さん達が上がってきたタイミングで再度入浴し、バイブラの浴槽に浸かっている笑顔の2人を正面から撮った。
僕が見た限り、桑の湯で最後に湯船から上がったのはこの学生さんだった。
学生さん達が風呂を上がってから、閉店時間の22時はあっという間だった。
外で待っているお客さんに声をかけて、一旦、男湯の脱衣場に入ってもらった。
女性のお客さん達は、男湯の脱衣場に入るなんて初めてで貴重な経験だと話している。
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番台の脇に四代目が立ち、お母さんや弟さんご夫婦、今まで桑の湯で働いてきた従業員さんたちが一列に並び、四代目が緊張しながら95年の感謝の気持ちを言葉にして伝えた。四代目とお母さんの胸には金メダルが光っている。
言葉を詰まらせる場面もあったが、しっかりと前を向いて力強く感謝の言葉を述べた。
そして、丸文さん達から花束が渡された。
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お客さん達を送り出し、雨の中、四代目が暖簾を外し、入り口のシャッターが閉じられた。
そして、先ほどまで緊張に包まれていた脱衣場で最後に記念写真を撮った。
報道対応も終わり、静かになったのは23時ごろだったろうか。
お母さんと丸文さんと、番台さんが、最後にお風呂に浸かっておきたいと話し、一緒にしまい湯に入っていった。
僕は静まり返った男湯でしまい湯に浸かり、居間で少し団欒をしていると「明日からは朝型に変え、体調を整えていこうと思います」と四代目は今後の抱負を話していた。午前中に売り切れてしまうお肉屋さんで買い物をしてみたいそうだ。
そして桑の湯を出る前に、四代目と2人で中庭に出た。男湯の窓から漏れる光が、いつもの場所をぼんやりと照らしている。
「自分の代になって、休まず営業を続けることができてよかったと思います」
四代目はずいぶん疲労した様子だったが、定休日やメンテナンス以外、いつも通りお風呂を開け続けてきたことを話してくれた。
その表情には、どこかとても満足そうな、大きな達成感が溢れていた。
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あとがき 桑の湯の閉業を見届けて
昭和の街角には欠かせない存在だった銭湯は、昭和43年をピークに全国的に姿を消していき、現在、最盛期の1/10以下にまで減少している。(全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会発表)。
高度経済成長期を経て、各家庭に風呂が普及し、銭湯は徐々にその役割を終えていった。かつては街の至る所で見られた銭湯の煙突も、なかなか見かけなくなった。
「昔は大家族でしたから、特に不自由なくやれてきたのですけれども」とお母さんが話してくれたが、家族経営の銭湯が減っていくのは、風呂が各家庭に備わったという事情以外に、核家族化により負担の集中が避けられないという面が大きいようだ。
桑の湯閉業後、番台や冷蔵庫などの設備を設置をした元スタッフの方達と話し合い、桑の湯を使って写真展を開催した。壁には、閉店までの日々を記録した写真や、桑の湯で開催していたお風呂教室の写真などが飾られ、訪れた人々は懐かしそうに写真に見入っていた。お母さんも積極的に脱衣場に出てお客さん達と語らい、釜場では、普段見ることのできない作業風景を四代目が丁寧に説明し、番台では順番に座って記念撮影をしていた。
会期中、ふと、こんなやり取りを耳にした。
「週2回とかで続けてもよかったかもしれないね」そう呟いたお母さんの表情と、それを優しく制する四代目の姿が印象的だった。本当は、なんとか続けたいという気持ちがあったが『これ以上無理はさせられない』とお互いの体調を気遣い、そういった気持ちを口にできなかったのかもしれない。
桑の湯は、閉業後、営業時間を大幅に拡充し、別会社の元、再オープンを果たし、地域の人々の憩いの場として、再び賑わいを取り戻している。
桑の湯では、家族を思いやる心、そして大勢の人々がひとつの場所を大切に想う気持ちに触れることができました。
突然の申し出に家族同様に受け入れて下さった桑の湯の皆さま、撮影に応じて下さった皆さまに、この場を借りて心より感謝申し上げます。
※本稿は、かつて塩尻の街にあった桑の湯の記憶を留めるもので、2024年末に再開した桑の湯とは異なります。
「最後の記念写真」では、全国各地の大切な場所を記録し続けています。他の取材記事もご覧いただけます。▶ [目次ページはこちら]