【短編】ワンツーミドル #1
10時の開店と同時に国子は駅前のファミレスへと入り、店員に案内されるまま窓際の席に腰掛けた。メニューを手に取ると迷うことなくパスタの一覧を開き、ざっと目を通した結果、肉が入っていないということでヘルシーな印象のたらこパスタを注文することにした。このあと会うことになっている本多との待ち合わせ時刻は12時なので、今から2時間ほどこの店で粘るために、加えてドリンクバーも付けることにした。
テーブルに設置された呼び出しボタンを押し、やってきた店員に注文を伝えると、『パスタにはサービスでスープが付く』とのことで、コーン、オニオン、たまごの三種類の中からたまごスープを選択した。
早速ドリンクバーへ向かいハーブティーを淹れていると、体格の良いスポーツマンタイプの男子たちが新たにぞろぞろと入店してきた。国子はティーカップを片手に持ち席に戻ると、何気なく店内を見渡してみた。すると客のほとんどは若者で、いずれもイカツイというか、いかにも強そうな風貌であった。
(これ、みんな選手なんだろうな……)
国子はそう思いながらカモミールティーをひと口飲みスマホを開くと、ちょうどそこへ本多からメッセージがきた。
『今から会場向かう。着いたら連絡する』
会場というのはこのあと12時に二人が向かうイベントホールのこと。今日はここでアマチュアキックボクシングの大会が開催されるのだ。いや、厳密にはもう始まっている。《ジュニア部門》と《一般部門》に区分けされていて、午前10時の試合開始から昼頃までは小中学生のみが出場するジュニア部門の対戦カードが組まれていて、まさに今がその真っ最中だ。国子と本多の目当ては午後からの高校生以上を対象とした一般部門であるため、正午に合流しようというわけである。
国子は元々キックボクシングどころか格闘技全般に対して知識がまるで無かったのだが、一ヶ月ほど前に本多に声をかけられたのを機に今大会に出向くことになった。
『了解です。私は近くのファミレスで時間つぶしてますね』
本多にそう返信し、次に今日の予習として改めて格闘技関連の動画を観ておこうと思った。ここ最近はすっかりこの手の動画を再生するようになり、おかげで自分の推し選手もチラホラ出てきた。中でもタイ人のアチャチャイ・タマランチャイというムエタイのチャンピオンがお気に入りで、彼の最大の武器である一撃必殺のハイキックによるKOシーンはもう何度も観てきた。今日もまずそこから観ようと、スマホに「アチャチャイYouTube」と打ち込んだところで店員がたらこパスタを運んできた。
早いーー。
どうやらこの店は生麺を使用しているようで、通常のパスタの茹で時間に対する概念を覆す調理時間で提供しているようだ。それならそれで先に食べてしまおう。
国子は動画視聴を一旦中断しスマホを脇へ置くと、フォークで麺をからめ取り、おもむろに口へ運んだ。たらこに込められたスケトウダラの愛情を目一杯味わうように咀嚼し、空きっ腹へと送り込む。サービスのたまごスープも、訳あって昨晩今朝とプチ断食を続けてきた国子の胃袋と心を優しく温める。あまりの美味しさについつい早食いしてしまいそうになるが、そこは気持ちをなだめすかして、若干小さくなったであろう胃になるべく負担をかけないよう慎重に食べた。
日曜日ということもあって店内も続々と来客があり、例の体育会系の若者や家族連れ、カップルなどで少しずつ活気づいてきた。
「試合前はやっぱパスタっしょ」
「いや米だろ米。糖質が大事なんだ」
「いや馬力出すなら絶対牛だって」
あちこちの席からそんな会話が聞こえてくるところを見ると、やはり彼らは今日の大会に出場する選手たちなのだろう。アマチュア大会というのはプロと違って当日計量なので、朝計量をパスしたら、会場の目の前にあってすぐに食事も出来、尚かつ長居も出来るこのファミレスが選手たちには利用しやすく重宝されるのだろう。
周囲の楽しげな会話や忙しく動き回る店員を横目に、国子はひとり黙々とパスタを食べ終えると、少しぬるくなったカモミールティーを飲み干し、再びドリンクバーへと向かったーー。
『駅着いた。北口コンビニ前で合流しよう』
本多から再びメッセージがあったのは、ランチタイムもピークを迎え、いよいよ空席待ちの客も出始めた11時50分頃だった。格闘技動画も散々観た、ハーブティーも散々飲んだで、もうそろそろ外の空気が吸いたいと思っていたところだったので、国子は軽やかな足取りで会計を済ませた。
店を出ると、クーラーの効いた快適空間から一気に盛夏の蒸し暑さへと様変わりする。すぐ裏手に大きな公園があるようで、今年初とも思える蝉の鳴き声も聞こえてくる。《夏の陣》ーー今回のキックボクシング大会のポスターに掲載されているキャッチコピー。まさにその言葉通りの陽気である。
商業ビル7Fにある会場は熱気に包まれていた。アップテンポなBGMが絶え間なく流れる中、いくつもの照明に四方八方から照らされたリング上で、防具に身を固めた選手同士が互いに殴り合い蹴り合っている。一発一発がヒットするたびに両陣営のセコンドが狂喜したりゲキを飛ばしたりしている。
『ダウン! ワン! ツー! スリー! フォー!……』
一方の選手がダウンしたり下を向いたりしてしまうと、すかさずマイクの声がけたたましくカウントを取る。
『2R 1分12秒 ×××選手のTKO勝利です』
本人の意思とは無関係に試合を止められ、強制的に敗者にされることもある。国子は一瞬、この場の空気にたじろぎ飲み込まれそうになったが、すぐに持ち直し肚を据えた。
(このリング上では、もはや思いやりや優しさなど関係ない。強い者が勝ち、勝つことこそが正義なのだーー)
会場には既に立嶋、小比類巻、梅野の姿があった。三人とも今大会に出場する選手で、本多は所属ジムのトレーナーとして本日、三人のセコンドを務める。ちなみに国子も今春からダイエット目的で三人と同じジムに入会しキックボクシングを始めた。
本多は三人に合流し軽く談笑すると、
「じゃあ梅野さん、そろそろアップ始めましょうか」
と、トップバッターとして出場する梅野を促した。梅野は40歳から未経験でキックボクシングを始め、今大会が二度目の試合出場となる。国子も梅野にはいつもマススパーリングという対人練習で親切にアドバイスを受けており、今回はぜひとも勝ってもらいたいと思っている。他の二人も同様で、皆強く優しく、同門の先輩として心から尊敬している。
アマチュアキックボクシングの大会というのは、プロと違って選手に控え室などは用意されていないため、皆、客が観戦している真横で着替えたりウォーミングアップしたりと非常にカオスな光景が見られる。国子もいつの間にかその雰囲気に感化され血が騒ぎ、気がつくと自分も本番前の選手に混ざりシャドーボクシングをしていた。
『続きまして第31試合。赤コーナー・カンガルージム石野拳、青コーナー・サイキックジム梅野大介』
いよいよ梅野の出番である。青コーナーサイドに設置されたパイプ椅子で待機していた梅野が立ち上がり、リングへと駆け上がる。41歳にして尚も新しいことに挑戦し続けるその背中を国子はリング下から静かに見守る。
試合開始のゴングが打ち鳴らされると、コーナーポストからはじき出されるように梅野が飛び出していった。
「しっかり構えて! ワンツーとミドル! ワンツーとミドルだけでいいよ!」
セコンド本多がいつも通りの指示を出す。ワンツーパンチとミドルキックーー本多は、これがキックボクシングの基本だという考えなのだ。余計なことはしなくていい。ただ基本に忠実にワンツーとミドルだけを極めろ、と。
「梅野さん、ミドルいいよ!」
「梅野さん、ミドル効いたよ!」
本多の横で立嶋と小比類巻も、梅野の士気を高めるようにプラスの言葉を送る。
やがて梅野のミドルキックが不意に相手選手のみぞおちを捉えると、一気に勝機が訪れた。明らかに動きが鈍り腰が引けた相手を梅野はコーナーに追い詰めると、容赦なくパンチの連打を浴びせた。
「ストーーーーップ!」
たまらずレフェリーが割って入ったところで試合終了。
『ただ今の試合、1R53秒、TKOにより青コーナー梅野大介選手の勝利です!』
鮮やかな勝利を収め、綺麗な顔で誇らしげにリングを降りてきた梅野を、本多と立嶋、小比類巻が拍手で迎え入れる。
(おめでとう梅野さん。次は私の番……)
国子は心の中でそう呟くと、パイプ椅子を立った。そこへ本多がやって国子の肩をポンと叩き、
「いいか。いつも通りでいいからな」
と、言葉を掛ける。このシンプルなアドバイスが国子にはとても心強かった。
『続きまして第32試合。赤コーナー・ラスボスジム灰野未留子、青コーナー・サイキックジム沢村国子』
ダイエット目的で入会してから三ヶ月。試合出場を決意してから一ヶ月ーー。
遂にこの時が来た。大きく深呼吸を一回し、国子はいざ、リングに上がる。