落語(23)八百屋お眠
◎長い長い冬のトンネルを抜けると、そこは春だったーー。この町を綿菓子に染め抜いた雪が消え、つくしの子が恥ずかしげに顔を出す頃、私たちは心の底から春の訪れを実感します。「春眠暁を覚えず」ーー。春は、まるで母親が乳飲み子を毛布でくるむかのような、その甘ったるい程の穏やかな陽気についウトウトしてしまいますね。
女1「こんにちは」
店主「(腕を組み居眠りしている)……」
女1「ちょっと八百屋さん。八ー百ー屋ーさん。あの、これ頂きたいんですけど」
店主「(目を瞑ったまま)ん? ああ、らっしゃい…あ、そう。これね…(野菜を片手で触り)えー、人参と…大根と…ネギね…。うーん、五十文。(銭を受け取り手の感触で確認)…はい、丁度ね。はい、毎度ぉ…(再び居眠り)…」
女2「すいませーん」
店主「(寝ている)……」
女2「八百屋さん。八百屋さんってば。…あの、これお勘定いいですか?」
店主「(瞑目のまま)へい、らっしゃい。…えーっと、どれどれ…なす…小松菜…ごぼう…みょうが…と…。うーん、六十文。(銭受け取り)はい、丁度ね。はい、毎度ぉ…(再び寝る)…」
女3「お願いしまーす」
店主「(寝ている)……」
女3「あの、すいません。いいですか? …コケコッコー。…あの、これ頂きたいんですけど」
店主「(瞑目のまま)…お? 悪い悪い。…えーと…まず、ほうれん草…いや、小松菜だな。で、松茸…いや、椎茸だな。それから絹さや…いや、さやえんどう…いや、えんどう豆?…まあ、何でもいいや。どれも似たようなもんだ。それとミョウガ…なわけないよな。こんなゴツゴツしてるんだから…ショウガだな、これは。…それから白魚…ん? 何で白魚? うち八百屋だよ?…あ、指か…。こりゃ失敬。えー、それから…桃…いや、もっと柔らかいな…大福? なんで大福がこんな所にあるんだ。え?…ああ、胸でしたか。こりゃまた失敬。そうしますと、えー、六十文。いや、五十文でいいや。いや、いいんですいいんです。色々触っちゃったんで、へへへ。(銭受け取り)…はい、どうも。毎度ぉ。…(再び寝る)…(舟を漕ぎだす)…(いびきをかく)…グゥー…グゥー…グガッ…ブフゥー……(瞑目のまま)ああ、ちょっとちょっと」
男1「へぇ、あっしですか?」
店主「そう、お前さんだよ。お前いま袂に何入れた?」
男1「いえ、あっしゃ何も」
店主「嘘をつくんじゃないよ。お前、今そこから卵三つ取って入れただろ。ちゃんと勘定なさい」
男1「いや、あの…ほんの一時的に入れただけでね。後でちゃんと払うつもりではいたんで」
店主「千両」
男1「 え! せ、千両? この卵、千両もするんで!?」
店主「冗談だよ。えー、右の袂に卵が三つ。左の袂にわらびとナスとふきのとうだから…五十文。ああ、お役所には黙っといてやるから口止め料が十文で全部で六十文。(銭受け取り)うん、確かに。はい、毎度ぉ。またいつでも万引きしにおいでー。ハハハ。(再び寝る)」
少年「あのぅ、ごめんくださーい」
店主「(寝ている)……」
少年「八百屋さーん。これ下さーい」
店主「(瞑目のまま)お、あいよ。えー、わらび…タケノコ…春菊…ふき…それから(頭を触り)くりくり坊主…おお、小龍寺の小坊主さんか。いつもお使いご苦労様。じゃあね、本当は五十文だけど、今日はおまけして四十文でいいや。ああ、いいんだいいんだ。え? なんで目を瞑ってるのに分かるのかって? へへへ。おいちゃんはね、肉眼で物を見てないんだ。鑑真のように心眼、つまり心の眼で見てるんだ。おいちゃんみたいに悟りを開くとね、心の眼が開眼するんだ。だから、お前さんも一生懸命信心して仏の道に生きれば、やがては心眼が開くことであろう。日々是精進なさいよ。はい、じゃあまたね。(再び寝る)」
男2「頼もう」
店主「(寝ている)……」
男2「もし、頼もう。八百屋殿。もし」
店主「(瞑目のまま)ん? あ、どうも、らっしゃい」
男2「あっしは木枯らしに吹かれるまま諸国を旅するしがない渡世人でござんすが、いやはやどうにも口寂しくて。何かこう、口に咥える葉っぱのような物があれば頂きたいんで」
店主「あ、さいですか。じゃあ、ネギなんかどうでしょう(渡す)」
男2「(咥えて)…ちょいと太すぎで」
店主「あ、さいですか。ちょっと太すぎましたか。じゃあ、ごぼうは?(渡す)」
男2「(咥えて)…いや、まだ太すぎで」
店主「さいですか。じゃあ、もう少し細いところでニラはどうでしょう(渡す)」
男2「ニラでござんすか。ああ、そんな沢山は。一本でいいんで。(咥えて)うむ、ニラ悪くないでござんすね。…ちなみに他には何があるんでござんすか?」
店主「他ですか。他にはえーと…三つ葉なんてどうでしょうか(渡す)」
男2「三つ葉でござんすか。(咥えて)…うむ、これも悪くないでござんすね。……悪くないでござんすが、あっしはやっぱり木の枝のような物が欲しいんで、これから近くの河原でもって自分で探しまさぁ。ご免なすって」
店主「あ、ちょちょちょちょっと。散々咥えたんだから、これ買ってって下さいよ」
男2「あっしには関わりのねぇこって…」
店主「あ、ちょちょちょちょちょい。……あー、行っちゃったよ。ったく、無責任な野郎だなぁ。"今さら紋次郎"だ…。はぁ〜、やってらんねぇ(再び寝る)」
金坊「お父っつぁーん」
店主「(寝ている)……」
金坊「お父っつぁーん。(体を揺すり)お父っつぁんってば」
店主「(瞑目のまま)んんんー…。ん? おお、何だ金坊か。帰ってきたのか」
金坊「ちょっとお父っつぁん。店番しながら居眠りしてちゃダメじゃないか」
店主「いいんだよ。昔から『寝る大人はよく育つ』って言ってな。働く阿呆に寝る阿呆、同じ阿呆なら寝なきゃ損々なんだよ」
金坊「なんだそりゃ」
店主「おう、金坊。いいところへ帰ってきた。お父っつぁん、ちょっと居眠りするからよ。お前、代わりに店番しろや」
金坊「えー、お父っつぁん。まだ居眠りするの? そんなに眠いんなら奥へ行って横になればいいじゃないか」
店主「分かってねぇなぁ、お前は。この店先でもって居眠りするっていう背徳感がたまらねぇんじゃねぇか。お前もまだまだ子供だなぁ」
金坊「だって子供だもん。分かったよぅ。じゃあ、あたいが店番すればいいんだろ? お父っつぁん寝てていいよ。おやすみ。…は〜、お父っつぁんもまだまだ子供だな。…(客が来て)いらっしゃいませ。十五文です。丁度で。ありがとうございます。…いらっしゃいませ。二十文です。丁度で。有難うございます。…いらっしゃいませ。三十五文です。一文のお返しです。ありがとうございます」
店主「(瞑目のまま)やい、金坊。いってぇぜんてぇ、お前の血の色は何色でぃ!」
金坊「赤だ」
店主「知ってるよ、そんなこたぁ。そうじゃなくて、何だそののっぺらぼうみてぇな接客は。お前、それでも八百屋の倅か」
金坊「そんなの知らないよ。お父っつぁんが父親だっていう証拠はないんだから」
店主「何を言ってやがる。いいか、金坊。商人ってのはなぁ、もっと血の通った接客をしなきゃダメなんだ」
金坊「どうやるんだ」
店主「いいから黙って見てろ。……さあ、らっしゃいらっしゃいらっしゃいらっしゃーい! さあ、上から読んでも八百屋なら下から読んでも八百屋の大安売りだよー! さあ、山のあなたの空は遠くとも山の芋なら目の前にある。そう、奥さん。どう? 山の芋。ねえ、これ見てよ。『山芋食べれば病も治る』ってね。美人半額、ブスはタダ。奥さん美人だからタダにはできない。半額はもらうよ。本来ならこれ三十文するところだけど十五文でいいから。もう奥さんだけだよ。他の客には内緒よ。…さすが美人は物わかりがいい! はい、丁度ね。毎度!…さあ、らっしゃいらっしゃいらっしゃいらっしゃい! さあ、当店自慢のネギはどう? ネギだけに値切りも大歓迎だよ。お兄さん、どう? このごぼう。このごぼう食べたら、ごぼう抜きの立身出世間違いなし! お姉さん、どう? この瓜。この瓜二つ食べればあの歌舞伎役者と瓜二つ。え? 『あたしは大根役者だから』って? もう、大根役者には特別に今日は大根安く売っちゃうよ。もう、こうなりゃナスもたたき売りだ。持ってけ泥棒、なすがままよ!(客が来て)へえ、奥さん丁度ね。ありがとうございます。ああ、お姉さんも。ありがとうございます。ああ、お兄さんも。ありがとうございます。……見たか、金坊。こうやってやるんだ」
金坊「お父っつぁん。そんなに出来るんなら最初から自分でやりゃいいんだ。もう、あたい手伝わないよ」
店主「おい、待て金坊! おい、こら! おい、金の字!…行っちまったよ。ったく。(再び寝る)」
女房「ちょいとあんた。今、金坊から聞いたけど、店先で居眠りしてるってぇじゃないか。…あら、やだ。こいつったら、まだ居眠りしてるよ。ちょいと、あんた。起きとくれよ、みっともない。ったく、寝るんだったら奥の部屋で寝とくれ。ちょいと。ちょいとあんたってばさ。起きとくれ。…起きろーーっっ!!」
店主「もう、うるさいなぁ。何だよ全く。そんなに大きな声出したら、俺の目が覚めちゃうだろ」
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