【読書noteNo.17 人工美は、「美」になりうるか?『ヘルタースケルター』】
今回取り上げるのは、岡崎京子の『ヘルタースケルター』になります。
沢尻エリカが主演の映画としても、話題になりました。※Amazonprimeで観ました。
漫画も映画も、内容としてはヘビーな内容。映画を観てから、原作の漫画を読みました
目がクラクラするほどの「美」の世界がそこにありました。そして、考えたことがあります。
「美」とはなんぞや?
あの人、自然体で美しいよね~と言われているような、つまりナチュラルビューティーだけが「美」なのでしょうか。
勿論、自然体の美しくさも素敵です。否定はしません。しかし、『ヘルタースケルター』を読んだあと、人工美も立派な「美」になりうるのでは?と考えを持つようになりました。
この問題を考える前に、まず漫画のあらすじを簡単に書いておきます。
田舎から出てきた少女りりこ。本作の主人公です。彼女は、全身美容整形によって、完璧な身体と美貌を手に入れ、トップモデルへと上り詰めます。しかし、整形手術の後遺症が出現し、より若く自然な美しさを持つ後輩モデル、吉川こずえが現れ、りりこはトップモデルの座をこずえに奪われ、焦燥と絶望にかられ、やがてクスリにおぼれ転落していく…
冒頭のセリフは、りりこが所属する事務所の女社長(作中では、「ママ」と呼ばれています。)のセリフです。
りりこ自身は、完全な人工美だったのです。
では、整形手術をしていない後輩モデルの吉川こずえのナチュラルな美こそが、「美」なのでしょうか。
この問題について、興味深い評論があったので、その評論を一部引用します。
精神家医の斉藤環の評論です。
漫画では書かれていませんが、映画における吉川こずえは、摂食障害を抱えた女性として描かれています。そう、吉川こずえもりりことは違った人工性の上で美を維持していたに過ぎず、決してりりこと、対立した女性として描かれていません。
一方の漫画の吉川こずえは、どのように描かれているかというと、無邪気な雰囲気を持ちながらも、次のセリフからも分かるようにどこか冷めています。
確かに、人間は血と肉の塊かもしれません。
それでも、自然にはない新たな「美」を手にいれたいという欲望が人間にはあるのかもしれません。
その欲望を叶えてくれる手段が、整形手術であれば、それに手を出すのも今なら分かる気がします。
なぜ、こんな事を言えるのか?
それは、私の母が私に言った言葉にあります。
ブスなオネエ
確か、中学生ぐらいの時だったと思います。
今、振り返ってみても、確かにそうだよな~と。男っぽい顔というよりは、どちらかといえば中性的なお顔だちでした。幸い、男だから別にそんなこと言われても、痛くも痒くもありませんでしたが、これが容姿を気にする女の子だったら、死にたくなる言葉です。仮に、自分の容姿にコンプレックスを持っていたら、自然体でなくとも、人工的な美しさは承知の上で、整形手術に手を出したと思います。新たな自分になるために。
今まで、人工的な美は、「美」ではないと考えていた私。
その価値観を大きく転換させた漫画、それがこの『ヘルタースケルター』であることは思ってもみませんでした……。
次回、取り上げるのは坂口安吾の『堕落論』の予定です。